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ポンペイの遺跡を訪ねて
 

ローマの北フィアノロマーノのホテル、ホリデイ・インを朝7時30分出発し、約240キロ南東に下ったポンペイを訪れる。ここも31年前に来ているが、当時と印象がだいぶん違う。その当時撮った写真を見てみると、遺跡の数が今より少なく荒涼とした感じがする。観光客の数も今ほど多くなかったのも、その違いの一つだろう。季節も今回と全く同じ時期で、夾竹桃の赤い花が写真に撮られていたのが懐かしさを誘う。

ポンペイに着いた時にはもう陽も高く上がって、この日も30度を超していた。遺跡はあたりに遮るものがないので、太陽にじりじり焼かれながらの見学となった。この日のガイドの名前も、ヴェネツイアと同じくアントーニオ。ヴェネツイアのアントーニオは精悍で行動的なタイプであったが、ポンペイのアントーニオは、暑さで口を開くのがかったるいような感じで、説明もゆっくりとした口調であった。

遺跡の見学は、西側のポルタ・マリーナ(海の門)を通り抜けて、マリーナ通りの石畳を歩くことから始まる。石畳には古代ローマの乗り物、馬車の轍の跡があり、建物があった所には馬を繋ぐ馬止めが残っている。右手にはヴィーナスの神殿テンピオ・デ・ヴェネレと当時の裁判所バジリカ。左手にはイオニア式円柱が並んだアポロ神殿とフォーロ(公共広場)。そしてその後方には双子山をしたヴェスヴイオ火山がくっきりと見える。

前回来た時のポンペイの印象で一番強く残っているのが、ルパナーレ(娼家)の壁にあるポルノ絵画。ルパ(lupa)とはラテン語で「娼婦」を意味する。1階と2階にそれぞれ5つ部屋がある。ベッドは石作りであるが、マットレスで覆われていた。娼婦は、通常はギリシアや東方出身の奴隷であった。娼婦の値段にはピンからキリまであったが、大体ワイン2本分から8本分程度であったという。その金も娼婦に渡るのではなく、娼家の経営者に渡った。壁のポルノ絵画は、言葉の通じない外国人たちへのセックスの体位を示す、今で言えばレストランのメニューのような役割をしていた。

当時の生活が偲ばれる遺跡が数々ある。なかでも、酒の甕を置いているカウンターのある酒屋からは、ワインを飲みながら談笑する当時の人々の声が聞こえるようであり、ベーカリーの跡のかまどからはパンを焼く香ばしい匂いが漂ってくるような気がした。

見ごたえのあるのは、ポンペイに残る3つの浴場の中で最も古く、保存状態のよいスタビアーネ浴場であろう。浴室は男女別々に左右に分かれている。床は二重構造で、蒸気で一定の室温が保たれていた。浴場は冷水と温水の風呂があった。また、西側には水泳のプールもあった。このスタビアーネ浴場には、ヴェスヴィオ火山の噴火の際、一瞬にして灰に埋もれて亡くなった人体の石膏像が、ガラスケースに収められている。

ポンペイの都市の起源は定かではないが、紀元前7世紀末から6世紀前半にかけて、古代エトルリア人やギリシア人によって、石灰華で作られた城壁の城郭都市が作られ、その後イタリア中部のサムニウム部族がやってきて移住したが、紀元前4世紀にはローマの支配下となった。紀元前1世紀にはローマに反旗を翻したが、再び降伏するところとなった。

紀元62年に、この地方全体に大地震が襲った。ポンペイはいち早く復興に手をつけたが、その被害は余りに大きく、復興には長い年月がかかった。そしてその地震から17年後の紀元79年、8月24日に突然、ヴェスヴィオ火山が噴火し、ポンペイは一瞬にして火山灰の下に埋没した。ポンペイが再発見されたのは16世紀のことであるが、その発掘作業が開始されたのは1748年、ナポリ国王であるブルボン家のシャルル三世によってである。そしてその作業は今もなお続けられている。

参考資料: ポンペイ遺跡の入場の際、無料で入手できるBrief Guide to Pompeii の案内文(英文)

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