高木登 ホームページへ戻る
 

トニー・ペロテットの『ローマ人が歩いた地中海』に話を戻せば、「古代の観光客にとって、旅行するそもそもの目的は、みんなが行くところに行き、みんなが見るものを見て、みんなと同じ感想を持つことにあった・・・観光とは巡礼のようなものだった」という。ツアーの最後がローマである私たちの旅行も、そのような意味においてまさしく<巡礼>であった。見るものだけではなく、私たちの旅行は全行程で、三食同じものを食べてきた仲間であった。

ローマについて書こうとすれば、それは結局誰もが書いてきたことを繰り返すことになろう。私たちは、巡礼者としての「体験」を内面化して、森有正のいうところの「経験」へと深めなければならない。しかしながら、ローマという巨大な都市の前では、表層的な知識ですら不十分でしかなく、いかに知らないかというとを思い知らされる。

イタリア旅行の後では塩野七生の本がよく売れるとは添乗員の牧野さんの話であったが、さもありなんと思う。

イタリア旅行最後の締めくくりとしてメモ代わりに記しておくと、私たちは最初にヴァテイカン宮殿を見学。システイーナ礼拝堂にあるミケランジェロの作品、<旧約聖書>創世記の物語を<天地創造><人間の堕落><ノアの箱舟>の3場9画面を分けて描いた天井画と、「最後の審判」の壁画は圧巻である。前者は教皇ユリウス2世からシステイーナ礼拝堂の天井画を命じられたとき、壁画の経験のない彼は辞退したが聞き入れられず、4年間の歳月をかけて1512年に完成した。私たちはその絵を見上げるだけでも首が痛くなってくるのに、それを描いたミケランジェロの苦難は並大抵ではなかったろう。しかもフレスコ画は漆喰が乾く前に描きあげねばならないという時間的制約もあった。「最後の審判」は教皇パウルス3世から委嘱され、1541年に6年の歳月をかけて完成した。

続いてカトリックの総本山サン・ピエトロ寺院を訪れた。そこには有名なミケランジェロの<ピエタ>大理石像がある。この作品はミケランジェロのサインがある唯一のもので、聖母マリアの胸に<フイレンツエ人ミケランジェロ・ボナローテイ制作>と、ローマ碑文体で刻まれた帯がつけられている。これはミケランジェロが24歳の時の作品であり、この作品を見た者が余りの見事さに、彼の作品でなくレオナルド・ダ・ヴィンチの作品であろうと疑ったためである。内部を見学した後、サン・ピエトロ広場の幾何学的シンメトリイの風光を眺めながら、しばし余情を楽しんだ。

午後からは、車窓観光を兼ねながら、コロッセオで下車し、その周りを見学。そして映画の舞台にもなった<トレビの泉>のあるスペイン広場へ。そこで娘と、アイスクリーム<ナカタ>を食べる。

この日の夕食はツアー最後の晩餐ということで、市内のレストラン“Thalia”で、カンツオーネ・デイナー。娘の七保は、母親のように慕った下平さんや、他の人たちとの別れるのが辛く、号泣してしまった。

翌日は、ローマから成田まで直行便のため終日時間があり、フリータイムを過ごす。午前中は娘の希望で、「真実の口広場」までタクシーで行って、そこから歩いてヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂を見学し、スペイン広場まで行った。午後からは革製品土産物店のミニバスで、フォロ・ロマーノや、クイリナーレの丘の「覗き穴」(穴からは、庭園の刈り込まれた庭木の直線上に、サン・ピエトロ大聖堂が見える)などを案内してもらう。

フォロ・ロマーノには、シーザーが殺された元老院の建物とキャピトル(議事堂)の跡があり、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』に思いを馳せた。

このようにして10日間のツアーも無事に終った。巡礼の旅に欠かせないのは、旅のよき道連れ。恵まれた仲間に感謝する。特に娘の七保は、下平さんご夫妻には本当の親子のように接していただいた上、帰国後はご主人からデジカメ編集の素晴らしいアルバムを七保のために送っていただいた。この旅行記を書くに当たっても大いに参考にさせていただいた。また、村田さんご夫妻とも食事のテーブルをご一緒にする機会が多く、楽しく過ごさせていただいたことを感謝したい。そして最後に、添乗員の牧野さんの<イタリア大周遊>の記録も、この旅行記には欠かせない資料だった。なお、文中のシェイクスピア引用は、註なき場合はすべて松岡和子訳を採用した。  

前のページへ戻る イタリア大周遊 トップページへ戻る