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ミラノ、大聖堂
 

イタリア旅行の初日はミラノから。

成田からミラノまで直行便で約12時間。成田を午後1時出発して、ミラノに到着したのが、時差が7時間で同じ日の夕方6時過ぎ。到着時のミラノの気温は33度。聞くところでは、その前日は41度までなったという。

翌日から、ミラノ市内見物の後、最終日まで総延長1200キロのバス旅行が始まる。

ミラノのホテルを出て、スフォルツエスコ城の前でガイドをピック・アップ。スフォルツエスコ城は、写真撮影のみで終る。スフォルツエスコ城は2年前ミラノに仕事の出張で来た時、中までゆっくり見学したことがある。スフォルツエスコ城には、ミケランジェロ最後の作品(彫刻)で未完成の<ロンダニーニのピエタ>が展示されている。ミケランジェロ・ブオナローテイはシェイクスピアが生まれた1564年に死んでいる。もっとも死んだのは1月だから、シェイクスピアが生まれる前のことである。彼が生まれたのは1475年だから、当時としては89歳と長寿であった。

スフォルツエスコ城から、ドウモの内部、ビットリオ・エマニエル二世アーケード、スカラ座の前を見学。ドウモもスカラ座も昨年から3年がかりで建物を修復中。スカラ座の修復完成は、2004年12月7日、ミラノの守護神セント・アンブローズの祝日開演に向けて進んでいる。

午前中のハイライト、お目当てのダ・ヴィンチの<最後の晩餐>を見るためにサンタ・マリア・デレ・グラッツイエ教会に向かう。<最後の晩餐>の見学は予約制で、それも1回が25人までで、15分間。ツアーのメンバーは33名なので、2回に分けての見学となる。人数と時間制限は、内部の壁画の保存条件として、雨の日に濡れたコートなど着て入ってもその湿度が絵画に悪影響を及ぼさない最悪の条件を限度にして決められたそうである。内部に入るのに、宇宙船か潜水艦に乗り込むように、二重に仕切られたガラス扉を通ることになる。まず入り口のガラス扉が開いて、狭い仕切り部屋で一旦停止して扉が閉まるのが確認されて、次のガラス扉が開いてお目当ての部屋に入れる。中はガランドウで、入り口の右手に<最後の晩餐>がある。

<最後の晩餐>は、通常のフレスコ画と異なり、レオナルド・ダ・ヴィンチが初めて試みたテンペラ画で描かれており、絵の具の付きをよくするために卵が使われた。そのため、虫食いなどで描かれた当初から破損が始まっていた。近年になってその修復が長期に渡ってなされたが、オリジナルの状態を尊重しているので、明るく見やすくなったとは言いながらも判然としないところが多い。

<最後の晩餐>のモチーフは伝統的構図法では、ユダ一人を別にして、キリストをはじめ他の使徒たちが座すテーブルの反対側に座らせるのだが、ダ・ヴィンチはユダをペテロとヨハネの間に座らせ、二人の明るい感じとは対照的に暗く描くことで区別している。

キリストの裏切りの告発が使徒たちに、驚愕と混沌を与え、それが波状的に伝染して、それぞれが一様でない驚きの表情と仕草を示す。その衝撃自体が目的のような表現である。

私の娘がこの絵を見て、奇妙な発見をして問いかけてきた。ペテロとユダの間、正確にはユダがテーブルに右肘をテーブルにつけているそのわずか上に、ナイフをしっかりと握った手が突き出ている。この手が誰の手なのか、絵を見れば見るほど分からない。この絵を参考に模写した絵を見ると、ペテロの腕が「く」の字に曲げられ、そこから手首が逆「く」の字に曲げられているように描かれている。それは非常に不自然な曲げられ方なのである。

本物を見る発見とは、こういうところにあるのだと思った。

15分間、閉ざされた空間と時間の中で、使徒たちの衝撃と、対照的に描かれたキリストの泰然とした諦観の悲しみが、静かに伝わってくるひと時を満喫した。

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