ジョン・ダンの説教集 第五章
 

貴族への説教

~『ルカによる福音書』23.34.「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」~

 神の言葉は永遠に共在し、肉体を得られた神性一体の息子、救世主であり、あるいは、われわれがそれによって生きる神の口から出た生命の息であり、われわれはパンのみで生きるのではない、そのことは聖書に次のように書かれている。
 「ことば は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(『ヨハネによる福音書』1.14)
 「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(『申命記』8.3)
 「人はパンだけで生きるものだはない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(『ヨハネによる福音書』4.4)
 すべての真理は神の言葉である。真理は神と同じく不変で、矛盾なく、不可分である。神の言葉とは、神の口から出たものである。
 「天は神の栄光を物語り、大空は御手のを示す」(『詩篇』19.1)

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」の4つのステップ:
 (1)誰に求めているのか―「父」に。
 (2)何を求めているのか―彼らを赦すこと。
 (3)何の理由で祈っているのか?―何のために。
 (4)その理由は?―彼らは知らないから。
 なぜ『ルカによる福音書』だけがこの祈りを記録しているのか、なぜこの祈りは神の手で得られないのか。
 従って「祈り」がわれわれの最初の入り口となる。というのは『マタイによる福音書』には、「求めなさい。そうすれば、与えられる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(7.7)と書かれており、祈りがわれわれの入り口であることを示しているからである。また、『ルカによる福音書』の「わたしの家は、祈りの家でなければならない」(19.46)と書かれているように、入り口だけでなく、家全体でもある。
 祈りの声に満ち、祈りによって行動的となる。というのは、行為は声であるからである。ソドムの罪とトビトの施しは叫びの声をあげる。
 「主は言われた、ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが非常に大きい」(『創世記』18.20)
 「慈善の業は死を遠ざけ、すべての罪を清めます。慈善を行う者は、幸せな人生を送ることができます」(『トビト記』12.9)
 『ヨハネの黙示録』1.12、「わたしは語りかける声の主を見ようとして振り向いた」
 それゆえあなたの役目は、心から祈ることである。
 如何に小さな声でひとり部屋で祈ろうと、またどんなに小さな声で教会で歌おうとも、神はあなたの声を聞き分けてくださる。
 主はヨブから非難されようと、言い争いされようと不平を言われない。『ヨブ記』:「全能者の矢に射抜かれ、わたしの霊はその毒を吸う」(6.4)、「わたしに岩のような力があるというのか。このからだが青銅のようだというのか」(6.12)、「彼らは神の息によって滅び、怒りの息吹によって消えうせる」(4.9)。
 悔い改めた者は皆、祈れば聖霊の神殿となる。聖霊は祈りそのものである。
 主は、わたしたちが呼ぶ前に答えられ、話す時にはお聞きになられる。
 魂の罪深い消費には、祈りへの愚かな考えや気が進まないことを直さなければならない。
 「得られないのは、願い求めないからである」(『ヤコブの手紙』4.2)。
 『ルカによる福音書』11.2「祈るときには、こう言いなさい。父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように」。
 『マタイによる福音書』5.44「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子なるためである」。
 「父よ、彼らをお赦しください」というのが、この栄光の宮殿の最初の部屋である。
 キリストが神の子であり、わたしたち自身が養子縁組によって神の息子であることを信じるだけで十分である。そうすれば神はすべての者にとっての父である。
 『ヨハネによる福音書』10.29-30「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである」。
 『ヨハネによる福音書』14.6「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」
 父は人殺したちを赦さなくてはならないのか?罪を犯した者は求め、父は赦さなくてはならないのか?
 あなたは彼らに対してより寛大で、あなたの御指示でわたしたち自身にも寛大となる。
 わたしたち自身のための祈りは制限されなくてはならないが、わたしたちが赦すようにお赦しください。しかしあなたの彼らへの赦しは制限がなく、無条件である。
 『創世記』6.6「主は地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」
 『サムエル記・上』15.11「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ」
 神は最初人を造ったことを後悔し、次に王を造ったことを後悔された。
しかし、神はあまねく赦しの腕の内に彼らを置かれた。それでわたしたちはみな、わたしたちの負債から解放された。というのはわたしたち全員に御言葉を、神性一体の御言葉をくださった。わたしたちの実際の罪は原罪を上回るが、神は御言葉をわたしたちに与えることで無罪にされた。
 救世主の愛は無秩序ではなく、均整を欠いてもいない。
 祈りには「理由」がある。「彼らをお赦しください、というのは」のように。
 王国は主のものです。なぜなら祈りは主のものだからです。
 『詩篇』145.16「すべて命あるものに向かって御手を開き、望みを満足させてくださいます」
 『ヤコブの手紙』4.2「欲しても得られず、熱望しても手に入れることができず」、3「願いを求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと間違った動機で願い求めるからです」
 主は、わたしたちの祈り、「主よ、絶望しないように十分にお与えください、つけあがらないようにあまり多く与えないで下さい」というわたしたちの祈りに適切に分け与えてくださいます。『箴言』30.8-9「貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り、主など何者か、と言うおそれがあります」
理性あるものだけが祈ることができる。獣や烏は、食べ物のために祈ることはせず、鳴くだけである。『詩篇』147.9「(主は)獣や烏のたぐいが求めて鳴けば、食べ物をお与えになる」。
 二つのことが祈りに求められる。
 『ホセア書』4.6「わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる」
 彼らは知らないのだから赦せと言われるのですか。
 無知は時に罪の原因であり、罪そのものであり、罪への罰であり、最初の大きな罪によってかかった病が彼らに利するのですか。誰が彼の過ちを理解できるでしょうか。
 『詩篇』19.12「知らずに犯した過ち、隠れた罪から、どうかわたしを清めてください」
 彼は無知を祈りの理由にしたのではなく、無智であることに対して祈った。
 主の慈悲は海のようなものです。
 無知な人たちは、無知であるからだけでくう、無知であるがゆえに赦されて、知恵の泉の中にいますが、すべての無知が赦されるわけではない。
 『テモテへの手紙1』1.13「以前、わたし(パウロ)は神を冒瀆する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました」
 わたしたちは信じることを義務づけられており、それゆえに不信仰によってなされる過ちは罪の名から逃れることはできないが、信仰は神の直接の賜物であるので、悪意の同意や事情のない不信仰によってなされる過ちは、仁慈の泉であるイエス・キリストから慈悲と赦しを得る。それこそが「かれらを赦しなさい、かれらは分かっていないのだから」という理由である。
 『コリントの信徒への手紙1』2.8「この世の支配者たちが理解していたら、栄光の主を十字架につけなかったでしょう」
 『使徒言行録』3.17「(あなたたちは)指導者たちと同様に無知のためであったと、わたしには分かっています」
 というのは、かれらには律法があるからです。
 『ヨハネによる福音書』19.7、ユダヤ人たちは答えた。「わたしたちには律法があります。律法によれば、この男は死罪に当たります」、19.15「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。

≪福音書について≫
 『七十人訳聖書』がヘブライ語からギリシア語に訳されたとき、各委員によって別々に書かれたにもかかわらず異同がないように、4人による福音書もすべて同じことを言っているわけではないが、ひとつも矛盾はしていない。
 『マタイによる福音書』27.9「こうして、預言者エレミヤを通して言われたことが実現した」
 エレミヤは聖書の中にしばしば登場し、二項名詞となっていて、翻訳者の誤りであるかも知れなく、聖書外典にも存在する(『エレミヤの手紙』)。
 4つの福音書は、四輪馬車の車輪のように一つの方向に進むように、4人の福音伝道者も一つの目的、一つの道を進む。

≪4つの福音書の特徴と相違点≫
 誰に向けられているか?
 『マタイ伝』はユダヤ人に向けて、次に非ユダヤ人に向けられ、東方の教会に対して、『マルコ伝』は西方の教会に向けられている。
 パウロに付き従った学識あるルカが記した『ルカ伝』は精確で詳細であるが、エウセビウス(注1)は『テモテへの手紙2』2.8にある「わたしの伝える福音によれば」という言葉からルカによる福音書をパウロが書いたと誤解した。
 ヨハネは地上におけるキリストに愛された弟子で、使徒の生き残りの一人で、エビオン派
(注2)やケリントス(注3)の異端説を論破するために『ヨハネ伝』を書いた。
 ルカは『使徒言行録』(1.1)で「わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」と記し、ヨハネは「これらのことについてしをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼のあか しが真実であることを知っている」(『ヨハネ伝』21.24)に記している。『使徒言行録』20章でパウロは「神の御計画はすべて、ひるむことなくあなたがたに伝え」(27)、「役に立つことは一つ残らず、あなたがたに伝え」(20)た。『ルカ伝』のもう一つの特異性は、一人の人、テオフィロに彼の物語を伝えたことである。テオフィロは「神を愛する者」の意である。

(注1)エウセビウス(260年頃から339年)は「教会史の父」と呼ばれるギリシア教父。
(注2)キリストの神性を否定し、聖パウロとその著作を排し、『マタイによる福音書』のみを受け入れた2-4世紀の異端、禁欲的な初代キリスト教徒の一派。
(注3)ケリントスは紀元100年頃の小アジアのグノーシス主義者で、世界は至上神によってではなく、デミウルゴスまたは天使らによって形成されたとし。キリスト養子論を唱えた。

≪ルカ伝の特異性≫
 『マタイ伝』、『マルコ伝』、『ヨハネ伝』ではイエスがユダに裏切られ逮捕されるとき、「イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって耳を切り落とす」が、『ルカ伝』はそこで制して「その耳に触れていやされた」とある。癒しの行為は医者にふさわしく、ルカは医者であったので、彼の言葉は萎える魂にとっての医術であった。

≪祈りの効果の考察≫
 『マタイ伝』27.46「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
 『ヨハネ伝』16.32「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」

 無知から犯す罪は悔い改めることで赦される。しかし、両親に背く罪は悔い改めることができないがゆえに、赦されることはない」。これらのことから言えることは、「父よ、彼らを赦したまえ、かれらは何をしているのか知らないのです」。

 <永遠なる神よ、あなたの王座からあなたの足台を見下ろしてください。天使と聖者の祝福された一座からわれわれを見下ろしてください。われわれ自身が犯した過ちによってみじめに蔑まれ、ウジ虫に食らわれ、塵であったものが、塵と還るわれわれを。主よ、あなたの正義の重みにわれわれは立っていることができない。あなたの慈悲に、父の名前だけしか持たないわれわれはそれをも失ってしまった。神の息子という名をあなたはアダムにおいてわれわれにいきなり与えられた。そしてアダムの罪によってわれわれすべてからそれを取り上げられたが、あなたは洗礼によるわれわれの再生において、われわれすべての者に再びそれを戻された。にもかかわらず、われわれは自分の過ちによって再びそれを失ってしまった。しかし、あなたは慈悲に倦むことなく、われわれすべての者にとっての贖いとして一人の者を選び出された。そしてあなたのキリスト、われわれのイエスの死によって再びあなたの息子としての資格をわれわれに与えられた。条件は軽いにもかかわらずわれわれはそれを破り、軛は軽くとも投げ捨ててしまう。それでどうしてわれわれはあなたを父と呼べようか?どうしてもう一度試す機会を乞うことができようか?われわれの心は反抗することに馴れ親しんでおり、絶望的である。だが、神よ、われわれの心に今一度新しい心、愛と恐れの心、父に従う心を恵みたまえ。そうすれば、われわれにかかわるすべてのことや、あなたに負っている義務のすべてに対して、父よ、許したまえ、と言うことができる。われわれの両親や洗礼を引き受けた人たちを赦したまえ。為政者を赦したまえ。彼らの怠慢を赦したまえ。そしてわれらの頑なさを赦したまえ。そしてこの戒めと勧告の祈りを心から言えるよう、お恵みを賜らんことを。
われわれの敵を赦したまえ。天に坐しますわれらの父よ。> 

 

 

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