ジョン・ダンの説教集 第一章
 
          復活祭の日、ニュー・マーケットで重病の国王の聖餐式で諸卿を前にしての説教

                              (1619年3月28日)

    ~『詩篇』89.48:命ある人間で、死を見ないものがあるでしょうか~

 この説教では「人間とは何か?」が繰り返し問われ、人間は死すべき運命にあり、死の必然性が説かれ、ダンの死に対する考えが明示される。

 生きている者は必ず死ぬ運命にある。
神は、死すべき運命の罪を犯したとき、人間に死の裁きを与えた。

 我々はみな牢獄に閉じ込められている。
 母の胎内では、我々はみな囚人である。
 生まれた時、我々はただ家の中での自由の身として生まれたに過ぎない。より広い壁の中にいるだけで依然として囚人である。
 我々の人生は、ただ執行の場である死へと出かけるだけである。
 我々は終始眠っているだけで、胎内から墓場まで目覚めることはない。夢とともに過ごし、想像の中で生きているだけである。

 生ける者で死を見ることがない者、それは、主とイエス・キリスト。
 すべての人の子は、原罪の罪を抱えている。
 すべての人間は死なねばならないが、彼とともに死ぬ者は彼とともに甦る。

第一部
人間とは何か?
『創世記』3.19、「お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵に過ぎないお前は塵に返る」

 『創世記』3.16、「神は女に向かって言われた。「お前の腹の苦しみを大きなものにする。 お前は苦しんで子を産む。お前は男を求め、彼はお前を支配する」

 死を味わない人間がいるか?いない。
 旧約聖書の族長の寿命は長く、我々の寿命は短い。
 暴力的な死、偶然の思いがけない死、死はなんと気まぐれなことか。

 『詩篇』90.10、「人生の年月は70年程度のものです。健やかな人が80年を数えても得るところは労苦と災に過ぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」

 平らな地図では、東は東、西は西として2つの点に置かれるが、地球儀では東と西は一体となり、すべては一つとなる。
 人の命も円として見れば、塵として生まれ、塵として返る。裸で生まれ、裸で返る。
 『ヨブ記』1.21、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」

 生と死は一つ。生と死は終わりのない完全なる円環である。

 死は別の生命の誕生であり、神の栄光への生誕である。
 一つの円が終わり、別の円が創造される。
 不死と永遠とは円である。
 命は円である。終わりのない完全な円である。

 聖書にある人の最初の名前であるIsheは「音、声、言葉」を意味するものでしかない。
また、人の別の名であるAdamは「赤土」を意味するものでしかない(Adamはヘブライ語で「人」の意味)。
 3番目の人の名Enos(ヘブライ語で「死すべき人」の意)は「惨めで哀れな生物」を意味する。

 『フィリペへの信徒の手紙』4.11、「わたしは自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています」

 『詩篇』82.6、「あなたたちも人間として死ぬ」

 人間は死から免れることはできない。そのことを理解しなければならない。
動物は死ぬが、死を見ることはない。
死の光景を見る―砂時計は死の時間に向かって走っている。

 『コリントの信徒への手紙1』11.24、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」

 死は、我々の存在を消滅させ、破壊する。

 『箴言』16.14、「王の怒りは死の使い。それをなだめるのは知恵ある人」

第二部
『使徒言行録』10.42、「イエスは生きている者と死んだ者との審判者である」

 『コリントの信徒への手紙1』15.51、「わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます」

 『テサロニケの信徒への手紙1』4.16、「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちは、いつまでも主と共にいることになります」

 『創世記』3.19、「お前は顔に汗を流してパンを得る。土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」

 『コリントの信徒への手紙1』15.22、「アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになる」

 『ローマの信徒への手紙』5.12、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだ」

 <裁きについて>
この世における裁きは中間(仮)の判決でしかない。

 『ヨハネによる福音書』5.22、27、「父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」、「裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである」

 『コリントの信徒への手紙1』15.52、「最後のラッパが鳴るとともに、一瞬のうちに、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます」

 『テサロニケの信徒への手紙1』5.2、「盗人が夜やって来るように、主の日は来る。人々が「無事だ、安全だ」と言っているそのやさきに、突然、破滅が襲う」

 生きている者で死なない者がいるか?
 人間とは何か?答えのない質問。

第三部
『詩篇』89.47、「あなたが人の子らをすべて、いかにむなしいものとして創造されたかを」

 『エゼキエル書』18.31、「お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を作り出せ。イスラエルの家に、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」
 『エゼキエル書』33.11、「わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」

 人は、まったくむなしく創造されてはいない。
もし人が真の死において再生しなければ、すべての人はむなしく創造されたことになる。

 キリストとその父との間の契約では、キリストは苦しむことによって栄光を得る。
 『ルカによる福音書』24.26、「メシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るはずだったのではないか」

 キリストは、彼が望んだがゆえに死んだ。
 『ヨハネによる福音書』10.15、18、「わたしは羊のために命を捨てる」、「だれもわたし から命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」

 人間とは何か?

 『イザヤ書』14.14、「雲の頂に登って、いと高き者のようになろう」

 『創世記』3.15、「それを食べると目が開け、神のように善悪を知るようになる」

 『箴言』18.21、「死も生も舌の力に支配される。舌を愛する者はその実りを食らう」

 『コリントの信徒への手紙2』1-4、啓示を受けたパウロが自らのことを語る。
 『使徒言行録』9章、サウロ(パウロ)の改心が語られる。

 『テモテへの手紙1』5.6
 放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるも同然です。わたしの魂も然り。キリストが魂のためではなく、魂において死んだ時、魂がキリストの感覚がなければ、魂は夫 を亡くした時、天から何の寡婦金も残されなかったやもめである。

 『コリントの信徒への手紙2』6.9、「人に知られていないようでよく知られ、死にかかっているようで、このように生きており」

<キリスト、死者を甦らす>
 『マタイによる福音書』9.23-25、指導者の娘を生き返らせる。
 『ルカによる福音書』7,11-15、やもめの息子を生き返らせる。
 『ヨハネによる福音書』11章、ラザロの死とラザロを生き返らせる。

 『詩篇』116.15、「主の慈しみに生きる人の死は主の価高い」

 人間とは何か?
 キリストは答える。わたしは人間である。わたしの中に住む者は誰も死ぬことはない。

≪所 感≫
 死を前にした時、人は何を思うか?
 自分の生涯を振り返って自分の人生は何であったろうかと思うとき、つまるところは「人間とは何であるか?」であり、「人間とは結局は死すべきものである」ということであろう。
 人は裸でこの世に生まれてくる。死ぬ時も何も持っていくことはできない。裸で死んで行く。
 それをむなしいものとして思うのだかどうか?!人の幸福も結局はそこにかかってくる。
(2021.06.26記)

 

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