ジョン・ダンの説教集 第四章
 

主教座聖堂参事会員の聖職者としての職に当たっての5つの詩篇に関しての二度目の説教、
                     1626年1月29日、セントポール寺院にて。 

~『詩篇』63.7、「あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼のかげ でわたしは喜びを歌います~

 『詩篇』は、教会の「マナ」(神与の食物)である。
マナは、「天使の食物」、「神が用意された天のパン」。
 「民は苦労することなく手に入れた。それはこの上なく美味で、だれの口にもあった」(『知恵の書』16.20)
 「ぶどう酒にもましてあなたの愛は快く、あなたの香油、流れるその香油のように、あなたの名はかぐわしい」(『ソロモンの雅歌』1.3)
 教会では『詩篇』は毎日うたわなければならない。
 『詩篇』はマナであり、わたしたちにとって手のかかる患者のようなもので、毎日、このマナを満たしては空にする。
 『詩篇』全体の魂は、この『詩篇』63.7に縮約される。
 『詩篇』の鍵(キー)は、過去、現在、未来という「時」の羅針盤。

 「イエス・キリストは、昨日も今日も、また、永遠に代わることのない方です」(『ヘブライ人への手紙』13.8)

 『詩篇』63章。ダビデが荒れ野にいたとき。
 2節、「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます」
 6節、「わたしの魂は満ち足りました、乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい、わたしの口は賛美の声をあげます」

≪世俗の苦悩と心の苦悩の比較≫

第一部一般の苦悩の普遍性と不可逆性の考察

 『コリントの信徒への手紙2』4.17「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」
 『出エジプト記』9.3「見よ、主の手が甚だ恐ろしい疫病を、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊に臨ませる」
 『ヨブ記』7.20「なぜ、わたしを負担とされるのですか」
 『サムエル記下』14.26「(アブサロムは)毎年の終わりに髪を刈ることにしていたが、それは髪が重くなりすぎるからで」
 『哀歌』3.7「重い鎖でわたしを縛りつける」
 『マタイによる福音書』20.12「まる一日、暑い中を辛抱して働いていたわたしたち」
 『箴言』27.3「石は重く、砂も目方がかかる」

 ダビデとソロモンは叫ぶ、「この世は虚しく気まぐれだ」。
 神はご存知だ、すべては重い重荷で圧迫、もし対置する未来の栄光の重さがなければ、われわれはすべて無へと沈むことになる。
 われわれの人生は絶えざる重荷であるが、呻き苦しんではならない。
 『ヨブ記』1.1「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」
 『サムエル記・上』13.14「主は御心にかな う人を求めて、その人を御自身の民の指導者として立てられる」
 『マタイによる福音書』3.17「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、4.1「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、"霊"に導かれて荒れ野に行かれた」、17.5「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。
 永遠の栄光の異例な重さは局面が一変する。世俗の繁栄は糞となり、世俗の不運は羽毛となる。
 『マタイによる福音書』21.44「この石の上に落ちるものは打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」
 心の悩み、苦しみは俗事から芽生える。神への不満、不信と改悛の情のなさは世俗の災難から生じる。
『エゼキエル書』11.19「わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える」、36.26「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」。

心の石化作用、石と化した心の者に対して、
 『ヨハネの黙示録』16.9「人間は、激しい熱で焼かれ」、11「苦痛とはれ物のゆえに天の神を冒瀆し、その行いを悔い改めようとしなかった」、21「1タラントの重さほどの大粒な霰の害を受けたので、神を冒瀆した。その被害があまりにも甚だしかったからである」。

 『詩篇』78.60「シロの聖所、人によって張られた幕屋を捨て、御力の箱がとりこになるにまかせ、栄光の輝きを敵の手に渡された」、27.4「一つのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」、42.3「神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか」、84.4「あなたの祭壇に鳥は住みかを作り、つばめは巣をかけて、雛を置いています。万軍の主、わたしの王、わたしの神よ」。
 『ルカによる福音書』12.7「あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」。

 『詩篇』84.4荒れ野でのダビデの神への叫び、「あなたの祭壇…万軍の主、わたしの王、わたしの神よ」、5.8「わたしはあなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたを畏れ敬います」
 『ダニエル書』6.11「ダニエルは、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた」。
 『申命記』31.10「モーセは彼らに命じて言った。主の選ばれた場所にあなたの神、主の御顔を拝するために全イスラエルが集まるとき、あなたはこの律法を全イスラエルの前で読みか聞かせねばならない」。
 部屋で一人祈るとき、謙遜と内気な信仰。
 集会所での公の祈りは熱情と信仰の聖なる勇気を発揮する。
 『詩篇』84.5「いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら。まして、あなたを賛美することができるなら」。

第二部 3つのステップ

 第一に、目的と行動に当たって、規則や見本による手本を提案することが必要。
 第二に、その手本とすべきものは、神が歩まれた道を守ること。
 第三に、神がダビデと共に歩まれた道は、ダビデの助けとなったものである。

 『ヘブライ人への手紙』11.3「信仰によってわたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かる」
 神が人に語る言葉、ヘブライ語には現在形がなく、I hear, I see, I readなどの現在形がなく、神の言葉では、神がすでに為したこととして過去形で語られる。
 神はあなたを造られる前にあなたを所有していた。神は最初にあなたを愛し、そしてあなたを造られた。それであなたは神を愛し、神はあなたを愛し続けられる。
 神はわたしを一人にしたままにせず、わたしの救いとして来られ、わたしを助けられた。神はわたしを助けることによって、わたしを助ける者として選びはしなかったし、造りもせず、贖うことも。発心させることもしなかった。
 信仰がなければ助けることはできない。
 『マルコによる福音書』9.24「信じます。信仰のないわたしをお助けください」
 わたしに本当に改心した良心の証があれば、神はわたしを助けてくださる。
 神は人の助けとするために、人に女を造られた。

 『詩篇』51.17「主よ、わたしの唇を開いてください。この口はあなたの賛美を歌います」。81.11「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう」

第三部 ダビデの状況の考察

 ダビデの現況-神の神殿からの追放
 ダビデの追想-神のダビデに対する慈悲
 ダビデの期待-未来への確信

 ≪2つの側面≫
 あらゆる強力な敵から逃れることも出来なければ、その敵に復讐の刃を加えることからも免れない。
 『詩篇』105.15「わたしが油を注いだ人々に触れるな。わたしの預言者たちに災いをもたらすな」

 ≪神のヘブライ語による3つの名前≫
 (1) エロヒム-力強い神の意。
 (2) アドナイ-力強い神、万物の主であり所有者。絶対的権力の名前。
 (3) ヤハウェ-「力」の名ではなく、本質、真髄で、存在、生存の名で、人々を救った神。
 「翼のメタファー」は、魂の悲しみ、心の落胆を克服する神の力の表示である。「翼の陰」は、悲嘆の慰めであり、惨めさからの解放ではない。翼のメタファーは、聖なる霊魂の「海の力」を表す。
 『出エジプト記』19.4「あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもと(シナイの荒れ野)に連れて来た」。
 『エゼキエル書』1.24「翼の羽ばたく音をわたしは聞いたが、それは大木の音のように、全能なる神の御声のように聞こえ、また陣営のどよめきのようにも聞こえた」。
 『エレミヤ書』49.22「見よ、敵は鷲のように舞い上がり、速く飛んで来て、ボツラに向かって翼を広げる。その日には、エドムの勇士の心は、子を産む女の心のようにおののく」。
 それ故、わたしは翼の陰を持てば、翼の力の証拠を持つ。
 わたしは偽りの慰めや、この世のみじめな慰めなど求めない、わたしには必要ないから。わたしは何はなくとも、翼の陰のもとに生きることができる。
 「あがな いの座」はケルビムの翼で覆われている。
 『出エジプト記』25.20「一対のケルビムは顔を贖いの座に向けて向かい合い、翼を広げてそれを覆う」。
 わたしたちの救済者キリストは、ケルビムと同じだけの働きをする。
 『マタイによる福音書』23.37「めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だからお前たちに応じようとしなかった」。
 神がわれわれを救い出してくれなくとも、また、敵を滅ぼさなくとも、われわれの生存を守ってくれるだけで、われわれに忍耐させるだけでなく、喜びを生み出してくれる。それ故に、翼の陰のもとにわたしは喜ぶ。
 世界が二つの半球に分かれているように、天も二つの半球がある。一つは「喜び」であり、もう一つは「栄光」である。世界の半球の内一つは早くから知られていたが、もう一つの方(宝に富んだアメリカ)は後になって発見された。
 天の半球もまた、「栄光」の半球を「復活」の日までとっておかれる。
もう一つの天の半球「喜び」は、我々の発見に開かれており、われわれがこの世界に住んでいる間、われわれの住居のために引き渡されている。

 死には「この世(世俗)の死」と「魂の死」がある。
 生まれながらの「生」は生ではなく、むしろ絶えざる死であり、われわれは二つの死のほかに天国のための永遠の生があり、天の生はこの世での魂の生でもある。
 喜びの永遠性は、次の生の祝福である。

 『ルカによる福音書』15.10「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」

 神の敵に復讐を望めば、神が喜んで彼らを根絶する。
 神が与える翼の陰は、慰め、呼吸、回復である。
 この世におけるよき魂の真の喜びは、天の喜びそのものである。

 『ヨハネによる福音書』16,22,24「あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」

 わたしは、死の苦しみの中で、訣別の悲しみの中で、転生の不可逆性の中で、神の顔を見るだろう、というのは、すべてのものが鏡となって、神をわたしの上に映し出すから。
 わたしは、魂が消え去ることがないのと同じように、決して消えることのない喜びを持つことになるだろう。それは天上の栄光の衣装をまとった喜びである。

 

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