ジョン・ダンの説教集 第三章
 

セント・ジェイムズで、チャールズ一世御前での初めての説教 (1625年4月3日)
                                
*3月27日、ジェイムズ一世死去。

~『詩篇』11.3:世の秩序が覆っているのに、主に従う人に何ができようか~

 『詩篇』11.2-3、「鳥のように山へ逃げよ。見よ、主に逆らう者が弓を張り、つる に矢をつがえ、闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。世の秩序が覆っているのに、主に従う人に何ができようか」

 我々は今なおレント(四旬節)の苦行の時節の中にいる。
最後のサバス(安息日)の日は、神の永遠の休息へと入る日である。

 

第一部
 義なる人、神を敬う人は、世の秩序が くつがえ る危険がなければ、落ち着いているのが務めである。

 『テサロニケの信徒への手紙1』4.11、「落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くように努めなさい」

 落ち着いていることを学ぶことは、心の行いである。
 落ち着いているように努めることは、体の行いである。
 落ち着いていることの意志と行為は、心と体の相応な本分である。

 『詩篇』115.5-8、「口があっても話せず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかぐことができない。手があってもつかめず、足があっても歩けず、喉(のど)があっても声を出せない。偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる」

 『ヨブ記』34.21、「神は人の歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ておられる」

 『ヘブライ人への手紙』4.13、「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです」

 『詩篇』94.8-9、「民の愚かな者よ、気づくがよい。無知な者よ、いつになったら目覚めるのか。耳を植えた方に聞こえないとでもいうのか。目を造った方に見えないとでもいうのか」

 『詩篇』39.12、「ああ、人は皆、空しい」。39.13、「主よ、わたしの祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙しないでください」

 『ヨブ記』19.22、「神の手がわたしに触れたのだ…なぜ、あなたたちまで神と一緒になってわたしを追い詰めるのか」

 慈悲心こそ、議論の余地のない宗教の土台である。
 教皇こそ、土台でなければならない。
 土台が壊されれば、義は何をなすことができるか。

 

第二部 
 土台としての4つの家。
 (1)教会=神の家。僕(しもべ)として忠実であることが求められる。
 (2)共同体としての国家=神の国、イスラエルの家、ユダヤ人の国家。
 『詩篇』132.13、「主はシオンを選び、そこに住むことを定められました」
 (3)家族と共に住む家。そこには神も住んでいる。ダビデは言う「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい(『詩篇』127.1)。
 (4)家の主人。すべての人は小さな世界であり、自分自身の中に住んでいる。聖霊も我々の中に住んでいる。
 この4つの家のすべてにおいて、神は「土台」であり、土台は壊されることはない。
 すべての建物の共通の土台は大地であるが、個々の建物の個々の土台は、石であり、煉瓦であり、パイルであり、土である。それゆえ、これら4つの家の個々の土台を考えなければならない。

 第一の家である教会の土台は、キリストである。
 『コリントの信徒への手紙1』3.11、「イエス・キリストという既に据えられている土台を 無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」。 
 イエス・キリストその人が、教会の土台である。
 最初の家である教会の土台は、キリスト、すなわちキリストの教義(聖書)である。
 『歴代誌・下』3.3では、神殿建築のためのソロモンの土台が語られる。
 キリストの教え、キリストの教義、キリストの聖書が、この家の土台である。
 『エフェソスの信徒への手紙』2.20では「信徒や預言者という土台」の上に建てられることが語られている。
 『ヨハネの黙示録』21.14、「都の城壁には12の土台があって、それには小羊の12の使徒の 12名の名が刻みつけてあった」
 ソロモンが家の土台の材料として使う切り出した石は、決意、決心、あらゆる勧告の教会の法規、神意である。
 低俗な解釈における聖書の使用、原語における聖書の使用、英語あるいはラテン語、ヘブライ語における聖書の議論を試みなければならない。俗人は聖書に触れてはいけない。それは最初の家である教会、聖書という土台をないがしろにし、破壊する行為である。

 

 次に二番目の家である国家、王国、共同体の土台は、「法律」である。
 法律は、国家と個人の間で相互的、互恵的である。
 個人は法に従い、国家は個人を保護する。
 『申命記』4.7-8、「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか。またわたしたちが今日あなたたちに授けるこのすべての律法のように、正しい掟と法を持つ大いなる国民がどこにいるだろうか」
 二番目の家である国家の土台は、律法である。

 三番目の家である「我々の住居」「家族」の土台は、「平和」である。
 夫と妻は愛と従順、父と息子は保護と従順、主人と使用人は規律と従順、従順こそすべての 平和のもと、従順なきところに平和はない。

 第四の家は、貧しく哀れな小屋、この家は我々自身であり、この家の土台は「良心」である。
 『テモテへの手紙1』6.18-19、「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように」「真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くように」
 『ヘブライ人への手紙』11.10、「アブラハムは、神が設計者である堅固な土台を持つ都を待望していた」
 良心とは何か?
 良心には知識と実行という二つの要素がある。この土台を壊すことは罪である。この罪を犯せば、貧困と病、不名誉を招き、罪の後悔を呼び覚ます。

 

第三部
 土台が揺さぶられるまでは、義はゆるがない。

 『マタイによる福音書』16.21、「このときからイエスは、御自身が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていると弟子たちに打ち明け始められた」

 『ヨハネによる福音書』8.46、「あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか」

 『ルカによる福音書』23.34、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないいのです」

 『ヘブライ人への手紙』12.2、「信仰の創始者また完成者であるイエス…このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」

 『テモテへの手紙2』2.19、「神が据えられた堅固な基礎は揺るぎません。そこには『主は御自身の者たちを知っておられる』と、また『主の名を呼ぶ者は皆、不義から身を引くべきである』と刻まれています」

 『箴言』10.25、「神に従う人は、とこしえのいしずえ

 土台が破壊されなければ、神において安全であり、自分自身において安全である。
 律法の権威に従順であることは、常に宗教の基本的な部分である。
 第一の家の教会の土台を守るのは、祈り、説教、実行、助言、献身である。
 第二の家の共同体である律法の土台を守るのは、律法に異議を唱えず、従うことである。律法を神聖なものとして、律法の施与者を敬え。律法を守れば、律法があなたを守る。
 第三の家の家族の土台は、平和、波風を立てないことである。
 第四の家の土台は、我々自身。第四の土台を守ることは、神を非難しない、神を疑わないことである。

 『ヨハネによる福音書』6.68、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」

 『詩篇』51.14、「わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください」

 『イザヤ書』51.4、「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た」

 『詩篇』61.4、「あなたは常にわたしの避けどころ、敵に対するちから強い塔となってくださいます」、62.7、「神はわたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは動揺しない」

 『ヨハネの黙示録』7.10、「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊のものである」

 

説教集目次第1章第2章第3章第4章第5章

ページトップへ