ジョン・ダンの説教集 第二章
 

セント・ポール寺院での説教 (1622年?)

~『詩篇』90.14、「 あした にはあなたのいつくしみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、
喜び祝わせてください」~

≪『詩篇』は「祈り」と「賞賛」の書である≫

第一部
 祈りは、神の信仰の根本である。
 『詩篇』は、賛美の書であり、祈りと賛美は二つにして一つ、同一のものである。

 権力と栄光の賛歌は、賞賛の円からなる。
 円は無限である。
 祈りと賞賛も同じく無限である。

 『イザヤ書』56.7、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」
 この世では、神の家は祈りの家と呼ばれるが、天国では賞賛の家と呼ばれる。

 『詩篇』5.3、「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください」
 この声はダビデの祈り。
 『詩篇』55.17、「夕べも朝も、そして昼も、わたしは悩んで呻く。神はわたしの声を聞いてくださる」
 『詩篇』119.62、「夜中に起きて、あなたの正しい裁きに感謝をささげます」
 『詩篇』34.1、「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」
 『詩篇』107.8、「主に感謝せよ。主は慈しみ深く人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる」

 祈りで神に願い、賞賛で神その人を求める。
 祈りは願いであり、賞賛はわれらの証である。

第二部
 満ち足りるということ―祈りは満腔の至情と満足である。

 満足することは、満ち足りることであり、平穏であること、黙従することである。
天国においては満ち足りていても、この世に生まれると十分に満足しておらず、肉体と魂の結合においてさらなる満足を願い、期待する。

 『エゼキエル書』16.29、「商業の地カルデアと淫行を重ねたが、それでもなお飽き足らなかった」

 『ハガイ書』1.6、「種を多く蒔いても、取り入れは少ない。食べても、満足することなく、飲んでも、酔うことがない。衣服を重ねても温まることなく、金をかせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるようなものだ」

 『ヨブ記』20.15、「呑み込んだ富は吐き出さなければならない。神は彼の腹からそれを取り上げられる」

 『ルカによる福音書』6.25、「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる」

 霊的恵みの欲求は飽満を生む。

 『申命記』33.23、「ナフタリのために彼は言った。ナフタリは主の恵みに満ち足り、その祝福に満たされ、湖とその南を手に入れる」

 『使徒言行録』6.5、「信仰と聖霊に満ちている人ステファノ」
 『ルカによる福音書』2.40&4.1、「知恵に満ち」「聖霊に満ちて」
 『ヨハネによる福音書』1.14、「恵みと真理とに満ちていた」

 霊的なものにおいてさえ、満ち足りて満足なく、満足して満ち足りることがない。

 『コリントの信徒への手紙1』2.2、「わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、わたしは何も知らない、十字架にかけられたキリストを知らなければ」

 満ち足りることは、計りにかけられることではない。

 『創世記』25.8、「アブラハムの生涯は175年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」
 『歴代誌・上』29.28、「彼(ダビデ)は高齢に達し、富と栄光に恵まれた人生に満足して死に」

 足りることは、祈りによって、願い求められる。
 神の御心によってあなたがたは満たされる。
 神の御心とは何か?
 ノアが方舟から出て主のために築いた祭壇に、献げ物を捧げた。
 『創世記』8.21、「主は宥めの香りを嗅いで御心に言われた。『人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ』」

 慈悲は我々自身に始まり、そこで終わることなく他者へと敷衍 ふえん する。
真の慈悲心は、我々ができることを我々が他人のためによかれと思うすべてのことを行うことである。

 満ち足りることは、十分な状態、そして、満足とは足るを知ることである。

 『詩篇』30.6、「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」

 『ホセア書』6.3、「主は曙の光のように必ず現れ、降り注ぐ雨のように、大地を潤す春雨のように我々を訪れてくださる」

 『詩篇』101.8、「朝ごとに、わたしはこの地の逆らう者を滅ぼし、悪を行う者をことごとく、主の都から断ちます」
 このことが、神の約束であり、実行であり、職務である。

 『列王記』19.3、「その夜、主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で18万5千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた」

 神の慈悲心を早く求めるなら、神と早く会うために早く起きなければならない。
神は明けの明星に約束された。それを見ようと思えば、早く起きなければならないと。

 『ヨハネの黙示録』2.28&22.16、「勝利を得る者に、わたしは明けの明星を与える」、「わたし(イエス)は輝く明けの明星である」

 神は我々にイエスを与える。彼のすべて、彼の涙のすべて、彼の血のすべて、彼の真価のすべてを与える。しかし、誰に対して、いかなる条件でか?明けの明星を与えるのは、克服する者に対してである。

 我々の人生は戦いである。生涯が戦いである。
 それは、青春の熱意、中年の大望、老年の信心の務めだけでなく、肉体の苦しみ、死の床における魂の試練との戦いである。
 我々はそのすべての戦いいに打ち勝ったとはいえない。朝にその戦場に入り、若いときに神の務めに身を任せ、途中で怠ることなく、夕べまで続けなければ打ち勝ったとは言えない。

 『知恵の書』16.28、「これはあなたに感謝するために、日が昇るより早く起き、光が射す前に礼拝すべきであることを彼らに分からせるためだった」

 これは二つの義務―「まず讃えよ、そして次に祈れ。それも二つとも早く」

 『哀歌』3.27、「若いときにくびき を負った人は、幸いを得る」

 『イザヤ書』26.9、「わたしの魂は、夜あなたを捜し」翌朝あなたはダビデと共に「あなたの慈悲でわたしたちを早く満足させてください」と言い、神はそうするであろう。

 『マルコによる福音書』13.32、「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である」

 神が我々を救出されるまでは永遠の夜であり、暗闇で何も見えないから、神の救出はすべて朝に行われる。

 『ルカによる福音書』12.3、「あなたがたが暗闇で言ったことはみな、明るみで開かれ、奥の間で耳にささやいたことは、屋根の上にも言い広められる」

 『ヨブ記』16.2、「そんなことを聞くのはもうたくさんだ。あなたがたは皆、慰める振りをして苦しめる」

 『エゼキエル書』30.24、「わたしはバビロンの王の腕を強め、その手に剣を与える」

 『詩篇』135.7、「主は、地の果てに雨雲を湧き上がらせ、稲妻を放って雨を降らせ、風を倉から送り出される」

 神の矯正は、神の行い。
 医者は神の創造物であり、神は必要があって医者を創られた。

 『集会の書』38.1、「医者をその仕事のゆえに敬え。主が医者を創られたのだから」

 神の矯正は最初の目的ではなく、二次的なものであった。
 神の目的は破壊することではなく、人を回復させることである。 

 一時の苦しみに包もうとも、我々を満足させてください。あなたの意思が慈悲であることを我々にお示しください。あなたの裁きに慈悲が宿っていると、我々を満足させてください。罪深い人間の愚かさのゆえに、束の間の祝福に、それが欠けていることで祝福を見て、神の慈悲も見えるように。
 あなたの裁きにおいて慈悲を見ることができるようにしてください。あなたが我々を見捨てて破滅へと追いやらぬように。

第三部
 祈りが産み出すものは、喜び、絶えざる喜びである。
 祈りが得るものは喜びであり、喜びは神自身のしるし であり、その保管者は聖霊である。

 『マタイによる福音書』26.44、「(イエスは)三度目も同じ言葉で祈られた」

 哲学’philosophy’のphilo-は新プラトン主義者には「神を知り、神を学ぶ者」を意味した。

 「喜ぶこと」を訳すとRananで、Rananとは内なる喜びの外面的表現を意味する。
 Rananという言葉はCantareを意味し、『詩篇』を教会で大きな声で歌うことである。

 『ダニエル書』6.8,10,11【勅令による禁止事項】
「向こう30日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる」、「ダレイオス王はその書面に署名して禁令を発布した」、「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、いつもの通り2階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた」

 『列王記・上』8.30、「僕(しもべ)とあなたの民イスラエルがこの所に向かって祈り求める願いを聞き届けて下さい…聞き届けて罪を赦してください」

 外面的Rananを失うことはあっても、内面的喜びのShamachを失うことは決してない。神はこの内面的な喜びなしで神の僕を置き去りにすることはない。

 『ローマの信徒への手紙』8.16、「この霊こそは、わたしたちが神の子であることを、わたしたちの霊と一緒になって証してくださいます」

 『コヘレトの言葉』2.2、「笑いに対しては狂気だと言い、快楽に対しては何になろうと言った」

 『ヨブ記』30.26-27&30.16、「わたしは幸いを望んだのに災いが来た。光を待っていたのに闇が来た」、「わたしの胸は沸き返り、静まろうとしない。苦しみの日々がわたしに襲いかかっている」、「もはや、わたしは息も絶えんばかり、苦しみの日々がわたしを捕らえた」

 祈りの主要な目的は、賞賛と感謝。
 過度の悲しみは、感謝をしないことの証である。

 

 

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