『記念日の歌』は、『一周忌の歌』と『二周忌の歌』の二部構成になっており、それぞれの詩の前に「序詩」が付けられている。これらの「序詩」は、ベン・ジョンソンがホーソンデンのドラモンドに語ったところによれば、ホーステッドにあるドルリー家の教会の牧師であったジョセフ・ホールが書いたものだという。
ホールは諷刺家としての才能が豊かで、イングランド教会の弁護者でもあり、エクスターの主教、後にノリッジの主教になった。
『一周忌の歌』は1611年に書かれて、その題名で出版され、続いて1612年に書かれた『二周忌の歌』が出版された時、現在の『一周忌の歌―この世の解剖』という題で一緒に掲載された。
『一周忌の歌』は、ホールの序詩の『死者とその解剖を称賛して』と、ダンの『この世の解剖』、および『挽歌』からなる。
『二周忌の歌』は、ホールの序詩の『遍歴の先駆け』と、ダンの『魂の遍歴について』からなる。
これらの詩は、1610年12月に14歳で亡くなったエリザベス・ドルリーを主題にしているが、ダン自身は彼女とはまったく面識がなかった。
『一周忌の歌』は、ダンの姉アンがかつてドルリー家に住んでいたことがあることから、ドルリー卿が娘の死を悼む詩をダンに依頼し、それに応えてダンが書いた。
そのことがきっかけで、ダンはドルリー卿の庇護を受けるようになり、ドルリー家の所有する家に住むことになった。
それはダンが1621年にセント・ポール寺院の主任司祭の邸に移るまで続いた。
ダンは、1611年から1612年にかけてドルリー家の家族と一緒に大陸を旅行し、『二周忌の歌』は、その時フランスで書かれたものである。
ダンはこれらの詩を出版するつもりはなかったが、ドルリーが1611年に『一周忌の歌』を出版し、1612年には『一周忌の歌』と一緒に『二周忌の歌』を出版し、1621年と1625年にも再版している。
『記念日の歌』はいろんな方面から批判や非難がダンに浴びせられた。特にベン・ジョンソンは、「ダンの『記念日の歌』は神聖を汚す冒とくに満ちている。この詩が処女マリアについて書かれたものであれば、りっぱなものであるが」とまで言っている。
ダンはこの批判や非難に対する言い訳の手紙をフランスから各方面に出していて、相当気にしていた様子がうかがわれる。
しかしながら、『一周忌の歌』が474行、『二周忌の歌』が528行にもわたる長い詩であることから判断すると、ダンとしても相当力を入れて書いたものと思われる。それだけに、その意外な反響にダンは戸惑ったのではないかと思う。
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