さようなら、君は私には高貴過ぎるし、
君も自分の価値を先刻承知のことだろう。
君は自由の身となるだけの特権を持っているし、
私の君への債権もすっかり期限が切れている。
私は君の承諾なしにどうして君を拘束し、
どこにその富の権利を受ける資格などあろう。
私にはこの立派な贈り物を受ける正当な理由もない、
だから私の特権は返上しよう。
君が自分を与えた時、自分の価値が分かっていなかったか、
あるいは、君が与えた私のことを買い被っていたのだ。
だから誤解で生じた君の大きな贈り物は
もっとましな判断をした上で元の鞘に収まるのだ。
こうして私が君を所有していたと思っていたのは夢のせいであり、
眠りの中で王様であっても、目覚めれば元の木阿弥というわけだ。
【私の鑑賞】
87番から94番にかけての一連のソネットは、ドーヴァー・ウィルソンによれば、いわゆる「別れのソネット」のグループに属し、C. K. プーラーは49番のソネットもこのグループに入れることで、青年との別離の過程がはっきりしてくるという。
詩人が青年を自分のものと思い込んでいたのは、詩人の夢の中の出来事であり、目覚めて見ればこれまでのことは何もなかったという。
青年との出来事は果たして夢の中でのことだったのか、それとも現実のことであって、今その別れの時が来たのか、これからの展開が気になる。