私の目と心は手を結び合って、
今は互いに助け合う。
目が一目みたいと渇望する時、
或いは、心が恋の溜め息で胸塞ぐ時、
目は私が愛す人の肖像画で饗宴を開き、
心を絵に描いた饗宴に招待する。
別の機会では、目が心の客となり、
愛の思いを心と分かち合う。
君の肖像画や私の愛で、
君が離れていようとも、君はいつも私と共にいる。
君は私の「思い」の届かぬ処へ行くことはできない、
私は常に「思い」と共にあり、「思い」は君とともにいるのだから。
「思い」が眠っていようと、目の中の君の肖像画が
私の心を目覚めさせ、心と目の喜びとなる。
【私の鑑賞】
46番では、目と心は法律用語をまで繰り出して、君(の姿)の所有権をめぐって争っていたが、ここでは目と心が同盟を結び、互いに助け合う。
目は「見ること」がその働きであり、君という実体が遠く離れていて見ることができない時、君の肖像画を見て楽しむ。その饗宴に心を招待し、君の不在を嘆く心を慰める。
あるときには、心が創造力によって目と恋人を思う気持を分かち合うために招待する。
こうして、君がたとえ遠く離れていようとも、君の肖像画を見ることや、君を創造力で思い浮かべることで、君といつも一緒にいることになる。
だが、君と常に一緒であるという悦びは、実体ではなく、所詮は虚像にしか過ぎない。
目と心の和解は、むしろ詩人を、より一層孤独な思いに誘っているのではないか。
そのように考える時、最後の二行は反語的な響きを感じさせる。