私の肉体の重い物体が「思い」のように軽ければ、
意地悪な距離も私の行く手を妨げないだろうに。
そのとき、空間をものともせず、私は行くだろう、
どんなに遠く離れた辺境でも、君がいるところなら。
そのとき、私がどこにいようと問題ではない
たとえ君から最も遠い地の果てにいようとも。
敏捷な「思い」は海も陸も飛び越えて行くことができる
「思い」がそこへ行きたいと思えばたちどころに。
ああ、だが私は「思い」でないという思いで身が重い、
君が去った後、何千マイルもの距離を飛んで行くには、
大方が土と水の重い元素からなっている私は、
嘆きつつ、時節到来を待つしかない。
そんな重い元素から受け取るものは
水と土の嘆きの表象、悲しみの重い涙だけ。
【私の鑑賞】
人間は、土、水、空気、火の四元素からなると考えられていた。
44番のソネットでは、大半が土と水という重い元素からなる肉体を主題にしている。
45番で空気と火が扱われ、44番と45番は一連の詩として対にして読むべきだろう。
肉体が「思い」のようであればと願うのは、たとえ地の果てであろうとも、青年のところへ飛んで行くこともできるから。
だが、それはかなわぬ願いであり、時を待つしかない。
待つことから詩人が受け取る代償は、重い肉体の元素である水と土の嘆きの表象、重く悲しい(heavy)涙だけである。