永遠の神よ、(あなたのためにあえて
新たな表現を求める者は、丸を四角にするようなものであり、
角のない無限の存在であるあなたを、
乏しい智恵の狭苦しい角に押し込めるようなものだ)
今あなたの名前を口にするかわりに、あなたの名前を賛美したい。
(あなたの贈り物は、あなた同様に無限である)
それゆえ、特にその恵みの一つに関して賛辞を捧げたい。
それは、あなたの祝福に満ちた霊が
これらの詩篇の最初の著者に二俣の舌(注:1)となって降りてきたように、
(というのは、彼は最高の内容を、最も高貴な形式で、
二重の能力によって歌ったからである)
それと同じように、あなたはその霊を二つに分け、
その仕事を再びさせるため、この世の二人の者に、その霊を注いだ。
彼らは、血においては二人であるが、霊においては一つである。
その二人の人間である兄と妹は、あなたによって
一つのオルガンとなり、あなたは音楽となった。
二人は洗礼者ヨハネの神聖な声(注:2)となり、
二人で「多くの島々よ、喜び祝え」(注:3)という詩篇を
訳し、その通りにこの島国の人々を喜ばしたうえに、
二人は、我々に何を、如何に為すべきかを教えてくれた。
彼らは、我々島国の者たちに、我々の喜びである我々の王様を示し、
なぜ、また、如何に歌うべきかを我々に教えてくれた。
このすべてであるすべてのものは、天と地と星の三つの合唱からなる。
第一の合唱である天は、歌っても人には聞こえない。
星には音楽があるが、舌がなく、
その音楽は、歌というより踊りである。
だが、我々の第三の合唱には、天も耳を傾ける。
(天使は、地上の教会の行いによって学ぶからである)
この合唱にはすべてが含まれる。オルガンの弾き手は
神と人を調停する人であり、オルガンは我々である。
その歌の数々は、天の高貴で神聖な詩神が
ダヴィデにささやき、ダヴィデがユダヤの人々にこっそり教えたものである。
そして、ダヴィデの後継者たちが、熱い信仰心に燃えて、
喜びと詩の形式にして、
ふたたび、優しく、真心をこめて我々に示したが、
私はそのことを素直に喜ぶことができない。
それは、これらの詩篇が
外では美しく着飾っているのに、中では粗末な衣裳しか着ておらず、
私室では立派であっても、教会では粗末であるのを見るからである。
このことが改革されるまでは
改善されたとはとても言えない。一つの国家が贈るものが
一個人の贈り物より小さくもてよいと言えるだろうか。
それに、我々の教会は、我々の配偶者であり王様である者に対して、
他の誰よりも、耳障りで、荒々しく歌ってよいものであろうか。
改善されることを祈り、そのことであなたの名前を讃えよう。
我々のモーセとミリアムによって、この訳業は
すでになされている。(注:4)そして我々はこれらの詩篇を
(別の著者を考える者もいるが)ダヴィデのものと呼ぶ。
同じように誰かが訳したし、これからも誰かが訳すかもしれないが、
我々はシドニー兄妹の詩篇をあなたのものとして賛美しよう。
そして、時間を超えた即興の歌を歌える時が来るまで、
(それは、この翻訳者たちを天国に移された
我々の王である神を見る最初の瞬間であるが)
これらの美しい学識豊かな労作を、ずっと続けて、
我々が奏でる音楽として祈ろう。その時が来れば、
天国で二人に出会うことができ、我々の部分を歌えるようになる。
【訳注】
52-3行から、この詩は1612年のペンブルック伯爵夫人の死後に書かれたに相違ないとされている。シドニーの『詩篇』の翻訳は1823年まで出版されなかったが、その原稿は広く知られていた。フィリップ・シドニーは、企画の早い時期に亡くなっており、翻訳の大部分はメアリー・シドニーの作になるが、ダンは両者に等しく賛辞を贈っている。
注:1 「二俣の舌」は、C.A. パトライズは、「神と人間」、A.J. スミスは、「言葉と音楽」の比喩として注釈している。
注:2 「洗礼者ヨハネの神聖な声」は、『ヨハネによる福音書』1章23節の「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」を参照。
注:3 「多くの島々よ、喜び祝え」は『詩篇』97章1節にある言葉。訳は日本聖書協会の新共同訳を借用。
注:4 『出エジプト記』15章1節「モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった」、同21節「ミリアムは彼らの音頭を取って歌った」を参照。ミリアムはモーセの妹で女予言者。
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