貴兄に。口づけよりも、手紙の方が心をよく掻き立ててくれる。
だから、こうして離れた友人たちは手紙で語り合うのだ。この楽しみが
僕の退屈な生活を紛らしてくれる。手紙なしの生活など
僕には考えられない。楽しみもなく、
わずか一日で心は枯れはて、ひと束の
干し草となってしまうだろう。元々一握りの雑草でしかない僕だ。
人生は船旅である。僕らの航海の行く手にある
田舎や、宮廷や、都会は、暗礁であり、コバンザメである。
それらは船を壊し、行く手を阻むものだ。しかし、僕らの状況は、
ピッチよりも黒く汚れたものであっても、それに触れずには済まされない。
赤道直下の炉の中の熱さにあえぎ、あるいは、
その反対に極地の凍える寒さに苦しんでいるなら、
二つの温暖な地帯が間に囲まれているのを思い出し、
そこに住みたまえ。だが、どこに逃げることができよう、
宮廷で焼け焦げ、田舎で凍えている時に。
寒暖の両極端からなる都会を選ぶべきか?
糞の山とニンニクをあわせて香水ができるか?
サソリやシビレエイに刺されて人の病が治るか?
都会は三つのなかでも最悪だ。その三つのなかで
(ああ、解き難い謎だ)それぞれが等しく最悪である。
都会は墓場である。そこに住む者は
屍であり、あたかもそこに存在しないかのようである。
宮廷は劇場である。そこでは人々は
王様を演じ、奴隷を演じるが、つまるところ、一介の土塊(つちくれ)でしかない。
田舎は砂漠である。そこでは、
(生得ではなく、習慣として)得られた美徳は理解されない。
そこでは人間は獣となり、さらなる罪を犯す。
都会では愚か者に、淫らな宮廷では悪魔となる。
原初の混沌の時代のように、
一つの元素の特性が他の三つの元素と混じり合っていた。
傲慢、情欲、物欲(注:1)はそれぞれ
この三つの場所に固有のものだが、三つがすべてに含まれ、
混ざり合った結果、生まれ出たのが近親相姦の子孫である。
虚偽が市民権を得て、美徳が異邦人として追放された。
そこでは誰も言えない、「美徳の石の壁で悪徳を
私のなかに封じ込め、悪いことは何でも知っているがやらない」と。
人間は海綿だ。吐き出す前に吸い込む。
ごまかすことを知る者は、損をするぐらいなら人を欺く。
というのは、最もよく理解する者から罪は始まったのだ。
天使がまず罪を犯し、次に悪魔、それに人間が続いた。
たぶん獣だけが罪を犯さないのだろう。哀れな我々は
すべての点において獣と同じだが、白い高潔に欠けている。
僕が思うには、これらの場所に住む人々が
自分自身を探し求めて、自分を取り戻したなら、
自分に対してまるで見知らぬ人のように挨拶をするだろう。
若き日のユートピアンが、老いてイタリア人となった(注:2)のを見るからだ。
だから君自身が君の家となり、自分のなかに住みたまえ。
どこにいようと、居続ければ地獄となる。
蝸牛(かたつむり)はどこにでも這いまわって行くが、
常に自分の家を運んでいて、いつも自分の家にいる。
この蝸牛を(彼の歩みはゆっくりしているから)みならって、
君自身が宮殿となるのだ。さもないと、この世は君の牢獄となる。
世間の海で、コルクのように水面で
眠ってはならない。また、深海に
糸の切れた鉛のように沈んではならない。
魚が、泳いだ痕跡を残さず、
音も立てず滑って行くように、ひっそりと自分の道を進み、
人々には、君が息をしているのかどうか、議論させておくのだ。
つぎのことでは肝に銘じて、ガレノス主義者(注:3)になってはならない。
宮廷に対する熱い野望を健康にするために、
田舎の退屈を一服の薬として飲んではならない。
矯味薬を加えるのではなく、化学療法(注:4)で悪いものを取り除くのだ。
しかし、貴兄よ、僕は君に忠告するつもりはなく、
君から学んだ教訓を繰り返すだけだ。
君は、ドイツ人の分離主義、フランス人の軽薄さ、
りっぱなイタリア人の不誠実(注:5)とは無縁に、
彼らのよいところだけをすべて吸収して、
君が持って出た誠実さとともに帰国した。
そういう君を僕はすべて愛している。だが、僕が僕自身を発見し、
僕の法則を知り得たなら、僕も、君も、持てるのだ
ダンを。
【訳注】
この詩は、エセックス伯を取り巻く文学サークルのなかで、宮廷、都会、田舎の生活ではどこか一番よいかという議論を、ダン、ウォルトン、ベーコン、その他の文学者たちが交わしたことから発したもので、ダンのこの詩に対してウォルトンからの返しの詩もある。1598年に書籍出版組合に登録された本のなかで詩人のThomas Bastard(1566−1618)がこの議論について言及していることから、1597年ないし1598年の作と考えられている。
注:1 「傲慢、情欲、物欲」は、それぞれ、宮廷、田舎、都会を表象する。
注:2 イタリア人は、狡猾で堕落していると考えられていた。
注:3 ガレノスは2世紀のギリシアの医学者で、ルネサンスに至るまで医学の権威と仰がれた。彼の説では、病気は四体液(寒、暖、乾、湿)のバランスが崩れ一つの体液の過剰が原因であるとして、その反対の体液をもって中和するという治療を唱えた。
注:4 「化学療法」は、四体液の調和を説いたガレノスに対して、スイスの医学者パラケルスス(1493−1541)が用いた近代的療法。
注:5 ウォットンは1589年から1594年にかけて、これらの国々を旅した。
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