9 シェイクスピアのソネットに見るダンとの類似性

 

その1 連載の終りを予測して

これまではダンの詩を通してシェイクスピアの発見を見てきたが、逆にシェイクスピアのソネットの中でダンの詩とよく比較される作品があり、特に115番のソネットは、多くの批評家がダンの『唄とソネット』の中にある「愛の成長」とを比較しているので、今回はシェイクスピアの側からダンとの類似性を見てみようと思う。

この連載を始めたとき、シェイクスピアのソネットとの関連で終わらせることになるだろうということをある程度予測していた、というかそれで終わりにしようと思っていた。ということで、この連載もいよいよ最終段階に入ってきた。予定の最終稿になるであろう10章目のまとめの構想を頭の中でちらちらさせながら、この第9章の筆を進めている。

ダンの全詩を本格的に翻訳しようと思い立った動機は、一つにはシェイクスピアのソネットの翻訳を終えて、次に何かと考えた結果、ダンの全詩集を翻訳してみようと決心したのが始まりだった。そのダンの全詩集の翻訳も、予定より一年早く、この9月で終えることができそうなところまできた。手書きの下訳があったこともあって、二年がかりのつもりが結果的にはちょうど一年で完訳となりそうである。

ダンの全詩集のテクストは、A.J.スミス編纂のペンギン版を使用して、翻訳の配列もそれに倣ってやってきたが、最初の『唄とソネット』だけは最後に残していた。それにはいくつかの理由があるが、結果としてよかったと思うのは、それまでの翻訳の悪戦苦闘が、『唄とソネット』にきて、翻訳の言葉を発見していく喜び、楽しみに変わってきたことである。

シェイクスピアのソネットの翻訳については、<雑司が谷シェイクスピアの森>の例会で、毎月一回、当初は4作、その後、参加メンバーも増えたこともあって、一回に5作を、一人1作担当して持ち回りで訳し、自分なりの感想や意見を出し合って、三年がかりでメンバー全員で読み上げてきたのだが、その際、会読用として自分の担当以外の詩もあわせ全詩を訳していったのが始まりであった。それもこの「シェイクスピアの森通信」に連載していただいた。ソネットの訳はいつかまた再挑戦したいと思っている。

話を元に戻せば、シェイクスピアのソネットに見るダンとの類似性、もしくは影響については、知られている限りにおいて、互いに接点のない二人がお互いの詩をどうやって知ることができたかということを思われる向きもあるかもしれないが、当時の詩作についての状況を知ればある程度納得ができるはずである。

ダンは生前一部の例外(といっても、ダンの意志に関係なく出版されたものであるが)を除いて自分が書いた詩を出版していないが、自作の詩を自分の知人あてや、知人たちの集まりで発表し、それを読んだり聞いたりした者が、彼の詩を手書きでコピーし、それが次々と広まっていき、そうやって彼の原稿以外に、彼の知人による手稿が残されている。

シイクスピアとダンを結ぶ接点としては、二人の共通の友人であるベン・ジョンソンなどが一つの可能性として考えられる。ベン・ジョンソンはダンの詩を非常に高く評価しており、なかでも『エレジー』の中の詩、「腕輪」を第一級の詩であると絶賛し、暗記していたほどである。ジョンソン以外にも、同じように二人の詩を結ぶ人物の可能性は十分あったであろう。

 

その2 115番のソネットとダンの「愛の成長」

シェイクスピアのソネット全篇を訳した時、原詩にはない表題を付けていった。115番のソネットには、「愛は成長する」と題しているので、ダンの詩「愛の成長」と同じであるが、自分では当初そのことに気付いていなかった。

アーデン版(第3シリーズ)のダンカン‐ジョンズ、ペンギン版のケリガン、ニュー・ケンブリッジ版のエヴァンズは、ともに115番のソネットをダンの「愛の成長」を比較参照にあげている。

まずその類似性を指摘されている個所について次に示す。

最初にシェイクスピアのソネット、次にダンの詩を紹介する。

 

Those lines that I before have writ do lie,

Even those that said I could not love you dearer;(Sonnet 115, 1-2)

 

以前に私が書いた詩は嘘だった

これ以上君を愛せないと書いたことは。

 

Methinks I lied all winter, when I swore,

My love was infinite, if spring make it more.(Love’s Growth, 5-6)

 

僕は嘘をついていたようだ、冬の間ずっと僕は、

愛は無限だと言い張っていたのに、春になって愛が成長するとは。

 

ソネットの訳には、「私の鑑賞」として自分の感じた気持を全篇に付けていたが、この詩にはこのような感想を寄せている。

<愛は成長する。

愛は完結ではない。今が最高ということは言えない。

だから詩人は自分の書いた詩が嘘であったという。

詩人がそのとき青年を最高に愛していると言ったのは、時の変化を恐れていたから。

時はすべてを変える。だからこそ詩人は今を尊重し、今を最高とした。

だが愛の神は永遠の幼子だから、成長をし続けるのだ。

詩人の青年への思いがやまないばかりか募るばかりであることを謳う。>

 

二つの詩で共通することは、「嘘をついていた」ということと、その嘘が「愛は成長するものだと思っていなかった」ことで、それ以外の内容、表現は異なっている。二つの詩のすべてを紹介しないではその違いは分からないが、興味のある方は、原詩、もしくは翻訳に当たって見て欲しい。(私のホームペイジ「あーでんの森散歩道」の「シェイクスピアのソネット」と「ダン全詩集訳」に拙訳がある)二つの詩の共通性は、「愛の成長」の概念であるが、それをどのような表現で表わしているかを確かめて欲しい。ここでは説明をする場ではないので省略する。

 

その3 美の基準のパラドックス、ダ―クレディ

‘Fair is foul, and foul is fair’

よく知られている『マクベス』冒頭の魔女の言葉である。この台詞にはパラドックスが内包されていて、そこで思い出されるのが、ソネットの127番から154番までに謳われているダークレディである。美の基準を逆転したパラドックスのソネットである。

シェイクスピアのソネット全体を俯瞰してみる時、一つのパラドックスとして感じるのであるが、ダ―クレディの一連のソネットは特にそれを感じさせる。

127番のソネットには、「美の基準」というタイトルを付している。その冒頭の部分は、

 

かつて「黒」は美のうちに入らなかった

ものの数であったとしても、「美」の名前を与えられなかった

それが今では「黒」は「美」の嫡流の後継者となり

「美」は庶子の汚名で名誉を汚されている (1-4)

 

この詩を読んだ時にすぐに思い出したのは、ダンの詩、『エレジー』の2番「アナグラム(綴り替え)」である。

 

フレイヴィアと結婚し、愛してやれ。

彼女は美人に必要なものはすべて備えている。

眼は小さく、口は大きい、

唇は象牙色で、歯は黒玉色、

眼はどんよりしていて、尻は軽い、

髪はバサバサ、肌は荒れ放題、

頬は黄色く、髪は赤いが、それがどうした。

君の童貞を彼女にくれてやれ、彼女は処女だ。

それら美の構成要素がそろっていれば、

完全なものとして喜ばねばなるまい。(1-10)

 

1番から126番までは、シェイクスピアは青年の美を歌いあげ、「最も美しいものこそ子孫を残して欲しい」(1.1)と言って、青年に結婚を勧めることからソネットが始まる。このシリーズでは、美は美であって’Fair is fair’であるが、そこに次第に’foul’なものが忍び寄ってきて、二人の「君は僕であり、僕は君である」という関係が、青年とシェイクスピアの恋人と、シェイクスピアとの三角関係へともつれていき、ダ―クレディの登場となる。ソネットの一篇一篇が独立した詩でありながら、螺旋状に発展していき、その中心点は同心円の構造となっていて、巧みに計算された全体構造を感じる。

一見ホモセクシュアルに感じる「君は僕であり、僕は君である」という関係は、ダンの詩でも同じように謳われていて、当時としては特別なものではない。同じように、ダ―クレディとアナグラムのフレイヴィアも、アイロニーを楽しむという点において当時のファッション的なものに過ぎないのかもしれない。

その4 ソネット140番「私だけを見つめて」

ニューケンブリッジの編者エヴァンズは、140番のソネットを、ヘレン・ガードナーの指摘として、ダンの詩『エレジー』の6番(「背教者」)との類似性について紹介しているので、二つの詩を見較べてみたい。いずれも拙訳から。

 

残酷であっても賢明さを示して、私が

黙って我慢するのを軽蔑して責めないでくれ

さもないと悲しみが私に言葉を与え、言葉が

憐みを乞う私の苦痛の様を語るだろう

 

愛しい人よ、おまえに分別を教えることができるなら

たとえ愛していなくとも、愛していると言うがいい

死期が迫って気の短くなった病人は

医者から回復の言葉しか聞こうとしないものだ

 

私が絶望するようなことになれば、気が狂って

その狂気が元でおまえの悪口を言うかもしれない

いまやこの歪曲された世界は邪悪となり

狂気から出た中傷も狂気の耳が信じるところとなる

 

私が悪口を言わないためにも、おまえが中傷されないためにも

おまえの高慢な心がふらつこうと、眼はまっすぐに向けてくれ (ソネット、140)

 

だが、君の過酷さで僕に

投げやりな絶望を起こさせないでくれ。そうなると僕の心は

研ぎ澄まされて君を嘲笑うことになる。ああ、苦しみに萎えた愛は

軽蔑ほど賢くもなく、十分な武装もしていなかった。

これからは違った眼で君を見つめ、

君の頬には死を、君の眼には闇を見るだろう。

希望は信頼と愛を生むというが、このような教えを受ければ、

諸国がローマから離反したように、僕も君の愛から離れるだろう。

僕の憎しみは君の憎しみに勝り、きっぱりと

君の戯れの恋を拒否する。 (『エレジー』6番、35‐44)

 

二つの詩の共通性は「見る」という行為に見られるが、そこに共通性を発見したと思われる時、そのことは最後の章で扱うであろう詩を読むという行為について関連するので、ここでは詳細は省くが、これを読んで皆さんはどう感じるであろうか。

紙数の関係で原詩を紹介できないのが残念であるが、これも関心のある方はオリジナルに当たってみて欲しい。

 

その5 ソネット146番「魂の勝利」と151番「愛に分別はなく」

ソネット146番は、ソネットの中の最大の傑作の中の一つとして有名なだけでなく、シェイクスピアのソネットの中で唯一宗教的な作品で、肉体を超えた魂の勝利を謳っている。

ダンの詩句に「死よ驕るなかれ、たとえおまえが強大で、恐れられようと」というのがあるのを思い出させる(宗教詩『神に捧げる瞑想』第10章の1-2行目)。

また、新約聖書『コリントの信徒への手紙(1)』15章26節にも似たような表現として「最後の敵として、死が滅ぼされます」がある。

146番はシェイクスピアの心境の変化に興味がそそられる詩である。

ダンの詩のオリジナルと訳を下に示す。

 

Death be not proud, though some have called thee

Mighty and dreadful, for, thou art not so, (Death be not proud, 1-2)

 

死よ、驕るな。ある人たちはおまえのことを強くて恐ろしいと

言っているが、そんなことはない。

 

ソネット151番は、赤裸々なまで露骨に肉欲、性欲を表現し、詩人は自制心もなく、理性、分別も放り出す。詩人は本能のおもむくままに性欲の成就を語る。

精神的な愛より、肉体の愛の勝利を謳っているように見えるが、そこに何か一抹のさみしさを感じさせる詩である。

アーデン版(3)のDuncan-Jonesは、14行目の’rise and fall’を、復活を勃起と委縮の冒涜的な遊びと重ねて、ジョン・ダンの『唄とソネット』の中の「聖列加入」(Canonization)の26‐7行目と比較参照する。

151番の13‐4行目と、ダンの詩を例によって下に示す。

 

No want of conscience hold it that I call

Her ‘love’, for whose dear love I rise and fall. Sonnet 151, 13-4)

 

私が分別を欠いていると思わないでくれ、私が

彼女を「恋人」と呼び、その愛ゆえに立ち上がって倒れようと。

 

We die and rise the same, and prove

Mysterious by this love.(Canonization, 26-7)

 

僕たちは死ぬとともに生きる。そして

この恋によって神秘なものとなる。

 

この章をもって、シェイクスピアとダンの詩の類似性についての考察を終える。次回は、最終回としてのまとめである。

 

 

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