その1 ダンの『魂の遍歴』と輪廻転生説
『魂の遍歴』はダンの詩の中でも最も長いものの一つで520行あり、同じ題名が付いていて528行からなる『二周忌の歌―魂の遍歴について』に次いで2番目に長い。
ダンは「形而上学的詩人」として名高いが、それとともに「魂の詩人」と呼んだ方がふさわしいくらいに「魂」(soul)について多く謳っている。
ダンは『魂の遍歴』の中で輪廻転生を謳うが、その根底には魂の不滅ということがある。
ピタゴラスの輪廻転生説も、魂は不滅であるというところからきており、肉体は滅びても魂は滅ぶことはないことを主張するものである。
シェイクスピアにもこのピタゴラスの名前が出てくる作品がいくつかある。
それはいずれも喜劇作品においてである。そのことで面白いのは、本来イロニイの詩人であるダンが真面目にこの問題に正面から取り組んでいるのに対し、シェイクスピアはどちらかというとからかい半分に用いている。
シェイクスピアの作品でピタゴラスの名前が最初に出てくるのは、『ヴェニスの商人』の「法廷の場」でグラシアーノがシャイロックに向かって吐く台詞、
おまえを見ているとおれの信心までぐらつき出し、
人間のからだのなかに動物の魂が宿るという
ピタゴラスの説を、つい信用したくもなってくる。
おまえのその山犬のような根性は、もともと
狼のなかにあったのだ、 (4幕1場)
で、この中で「狼のなかにあった」という台詞は、ダンの『魂の遍歴』では、その41章に「魂はまだ生まれていない狼の子どもに宿り」として登場する。
次に、魂はまだ生まれていない狼の子どもに宿り、
最も優れた産婆である自然が狼の生まれ出るのを
手伝った。狼は歩き始めるとすぐに殺しを始めた。
アベルは、彼の羊のように白く温和であったが、
(彼は、教会や王国の羊飼いとして
最初のお手本であった)絶えずこの狼に
悩まされ、羊を奪われては悲しんでいた。
しかし彼の雌犬が番犬として
羊の群れを近くで見張って、警告を発し、よく守っていたので、
狼は(他に方法もなく)この雌犬を籠絡しようと考えた。
狼は、番犬の雌犬を孕ませ、狼と犬の間に生まれた子は、忠実と狡猾の二面性をもち、グラシアーノのいう「山犬根性」で、狼とも犬ともつかず、人からも、狼からも、犬からも追われて死ぬことになる。
その2 『お気に召すまま』とピタゴラス
『お気に召すまま』では3幕2場でロザリンドが、
私、ピタゴラスの時代以来、こんなに詩に歌われたことってなかったわ、あの人の輪廻転生説によればそのころ私はアイルランドのネズミで、農民たちの歌で呪い殺されたかもしれないけれど。
と語るが、この台詞もピタゴラスを皮肉った表現である。
ネズミは、ダンの『魂の遍歴』では38章から40章にかけて登場する。少し長くなるが、38賞と40章を引用すると、
魂は、今では牢獄と感情から自由となったが、
少しばかりの憤りを感じていた、
あんな小さな槌であんなに大きな城がいともたやすく
倒れたことに。自分の家として
哀れなネズミという狭い牢獄を得た魂は、
(食べる物とてなく、何の楽しみもない
どん底にある人が、快適で落ち着く館をもっている人よりは、
偉い人に対し強い憎しみを抱くように)
偉大な者も小さな者から倒されることがある
と最近学んだので、大胆な悪戯(わるさ)をしてみる気になった。 (38章)
ネズミは象の鼻の中をまるで回廊を歩くように
歩き回り、広大な館の部屋々々を調査して、
魂の寝室である脳に到達した。
そこで生命の糸を噛み切った。町全体が
すっかり地雷で吹き飛ぶように、殺された獣はひっくり返り、
彼と共にその下手人も死んでしまった。嫉妬で殺すものは
逃げることを頭に入れない。死ぬ気になった者だけが、
自分より高位の者を倒すことができるのだ。
こうして彼は自分の敵を餌食にして、墓場としたのだった。
生還を考えない者だけが、どこへでも行けるのだ。 (40章)
少し注釈を入れると、38章の「あんなに大きな城」というのは前章までに魂が入り込んでいた「鯨」を表わしている。それまで魂は小さな魚のなかにあって、それが鯨に飲み込まれ、鯨はメカジキとオナガザメに襲われてあえなく倒れ、「あんな小さな槌であんなに大きな城がいともたやすく倒れた」と表現されている。
その3 『十二夜』とピタゴラス
ピタゴラスが最後に出てくるのは『十二夜』の道化の台詞である。
道化 野生の鳥に関するピタゴラスの説とはなんじゃな?
マルヴォーリオ 死んだ祖母の魂が鳥に宿ることもある、と言っております。
道化 その説を、そなた、どう思うな?
マルヴォーリオ 私は魂を尊いものに思いますゆえ、彼の説には同意できません。
道化 さらばじゃ、いつまでも暗闇にとどまるがよい。そなたがピタゴラスの説を
容認するまでは、そなたを正気と認めるわけにはまいらぬ。(4幕2場)
『魂の遍歴』では魂が宿る鳥は雀である。
出てきたのは雀、魂の動く宿であった。
生まれたての両腕にもう硬い羽根が生え始めた、
乳歯が痛みを伴って歯茎から生え出てくるように。
身体はまだジェリー状で、骨は糸のよう。
生えたての産毛のマントを体中に覆い、
口を開ければ、その口は彼が今まで住んでいた家を
すっぽり飲み込むほど。その第一声は、
食べ物を求めて大きな声で鳴くことだった。人間にふさわしい食べ物を
盗んできては、父親は雛鳥に食べさせてやったが、
一か月もすると、雛鳥は父親を雌鳥から打ち払うのだ。 (19章)
雀は好色であると当時の人からは信じられていたが、マルヴォーリオ(シェイクスピア)は、魂がどんな鳥に宿ると考えていただろうか。
ダンの『魂の遍歴』にはタイトルとともに、次のような言葉が添えられている。
無限に捧げる
1601年8月16日
魂の再生
諷刺の詩
イタリアに端を発したルネサンスは、思想の上においては信仰と哲学を融合しようとした中世のスコラ哲学からの決別と、ギリシアの自然主義的思想への回帰であり、「魂の不滅」については15世紀のフィレンツェのフィチーノの主張から始まる。
ダンは、この詩によってピタゴラスの魂の不滅を謳うだけでなく、人間という存在について、魂が輪廻を重ねることによって人間性を得て行く過程を、アリストテレスの形而上学における魂の三つの過程、植物相の成長の魂、動物相の感覚の魂、そして人間の理性の魂にいたる遍歴をパラドックスに風刺して展開したのだった。
ページトップへ |