信仰よ、私に振り向いて下さい。神よ、私の信仰心を顧みて下さい。
私の二つの中心が、時の終りを感じている。
一つの中心は重さであり、もう一つは偉大さである。
前者は理性であり、後者は信仰である。
この自然の世界が包むすべてのものは、
我々の理性へと流入し、そこで結末を迎える。
日々の事柄は、互いに等距離にあって、
人間のために、円周の中に閉じこめられている。
しかし、とてつもなく偉大なものは、
比肩するものもなく、際立っているので、それは、
神の本質、居場所、摂理のようなものであり、
この世から立ち去った魂が、どこで、どのように、いつ、何をするか、
といった事柄は(中心から外れないようにするため)信仰に訴えねばならない。
だが、すべてのことが信仰に訴えなくてはならぬものではない。
というのも、理性を最高に引き伸ばせば、
信仰と紙一重となり、両者の中心が一つとなるからである。
我々が失った皇太子のことを沈思することほど、
このことに近づくことはかつてなかった。
なぜなら、信仰が信じることをすべて人間が信じ、
皇太子が望んだことを、理性が常に支持したからである。
地球の中心がわずかにずれるだけでも、
地獄全体が吐き出す以上に、世界は大きく揺れ動く。
ましてや、信仰と理性の中心がずれてしまえば、
我々が何を信じ、何を考えればよいか分からなくなるのは当然である。
これまで信じられていたことは、彼の
名声が、近隣諸国のものにとって恍惚であり、
彼の取る方策が明らかになるまで、
なぜ目を覚ます必要があるのかということだった。
彼の支持を得ようと仕掛けを試みる皇子たちは、
電気エイを引っ掛けて、痺れるのが関の山だ。
彼が何を目指しているのかが、他の人々の研究課題であった。
彼は、彼の偉大な父親の道具となって、
行動的な精神で、キリスト教国に、
平和の魂(注:1)を伝え、結びつけようとした。
また、彼はこのようにも信じられていた。
彼は、この普遍的な平和を永遠に続くものとし、
彼の時代がどこまでも続いていき、
彼の時代が象徴に過ぎない処(注:2)まで達するだろうと。
この信念の正当性を確信するため、つまり、
最後の日が迫っていることを確かなものとするために、
神は、彼の顔色と行動からのみ、
この平和な時代に、戦争の噂(注:3)が広まるのを許されたのだった。
だが今となっては、この信仰も異端である。我々は
永遠に塵として留まり(注:4)、曾祖母を苦しめる。
ああ、神は本当に気前がよいのか。神は、我々に
災厄の数々を惜しみなく与えたか。もっと多くの不幸があれば
ずっと楽になるのに、今、神は不幸を与えるのを惜しんで、
我々が死という呪いを楽しむことを許さないのか。
地球がすべてのものにまして、最も低い処に投げ出され、
さらに落下することを望めば、それは野望であろう。
同じように、我々の死にたいという望みが、
不幸な状態から楽になりたいという企みであることを、神は見抜いている。
だから我々は生きるのだ。だが、我々は、
皇子の墓に生い茂るマンドレイク(注:5)として生きるだけである。
彼が成長し、子孫が生まれていたらどうなっていただろうか。
我々は土塊に過ぎず、彼の腐敗が
生きる支えとなって、悲しみだけで生きている。
今は、それより他の魂は、我々の世界にはない。
悲しみが天まで高く昇ることができるなら、
この新しい喜び(注:6)を忘れた天の聖歌隊も、
(彼を見て悲しみ)彼が下界に留まり、
彼らが予知する我々の罪を正してくれることを望んだであろう。
もう一つの中心である、理性は安全であろうか。
もはや人間でない我々は、それをどこに求めればよいだろうか。
理性が、因果関係を結び合わせるものであるとしたら、
今ではそんなものはないのだから。
実体のすべてが失われているとすれば、
その属性を求めるのは馬鹿げたことでしかなく、
彼が亡くなった今、理性を求めるのもそれと同じことだ。
彼こそが、理性が働きかけた唯一の主人公であった。
運命には神の摂理の因果関係の連鎖があると考え、
勤勉な人は、そのさまざまな関係の輪を認識していると自分では思っているが、
奇跡が起こって、新しい輪をこっそり差し込むと、
どこから始めたらよいのか分からなくなる。
理性はもっと面喰っているに違いない。
死が、彼という鎖の輪を断ち切ったのだから。
しかし、今になって、我々に理性がないと証拠をあげつらうのは、
我々にも理性が少しはあったことの証となるだろう。
当然の悲しみも同じことが言えるだろう。その結果、
我々が死んでいるのは、彼の死より確かなことだと言える。
我々が我々の悲しみを十分に表わせないとしても、
我々には二重の言い訳がある。つまり、死んだのは彼ではなく、我々の方だと。
だが、私はまだ死にたいと思わない。 私の心は、
彼の実体が何であるかを考えるには狭すぎるが、彼は、
神について思いを巡らす我々の魂の長い旅路における
最高の休息の場所であり、中間点であって、
しかも(名誉を汚さず)彼に到達することができるのは、
彼もまた、我々同様、恋の炎を抱いていたからである。
ああ、(私は生きているので)この球体を動かしている
女天使を見たり、聞いたりすることができれば、
私を生かしている運命を許すことができる。あなたが誰であれ、
気高い良心を持った女(ひと)、そのようなあなたに、
彼が語りかけた愛の言葉にかけて、
あなた方二人が決して破らないと誓った誓いの言葉にかけて、
あなた方が溜息で吐いたすべての魂にかけて、私は言おう。あなた方が
この詩を見れば、あなた方の物語を私が知っていたらよかったと思うだろう。
そうすれば、あなた方二人は互いに地上における天国であり、
私は、あなた方のことを歌う天使となっていただろうに。
【訳注】
皇太子ヘンリー・フレデリック・スチュアートは、ジェイムズ1世の長男で、王の後継者であったが、1612年11月6日、腸チフスで18歳の若さで亡くなった。学芸の庇護者、プロテスタントの指導者として期待されていただけに、彼の死は衝撃的であった。
注:1 「平和の魂」はジェイムズ1世の平和確立の政策。
注:2 「彼の時代が象徴に過ぎない処」とは、この世の終わりの後に来るキリストに支配される新秩序の時代。
注:3 「戦争の噂」は、『マタイ伝』24章6節に「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」とある。
注:4 「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きるものとなった」(『創世記』2章7節)
注:5 マンドレイクは、人の形をしていて土中から引き抜く時呻き声を出すといわれていた。
注:6 「新しい喜び」とは、皇子ヘンリーが天国に召されたことの喜び。
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