高木登 観劇日記2021年 トップページへ
 
   劇団東演公演 No.160 『マクベス』                 No. 2021-017

 2年前の2019年3月に初演を観ていたのにすっかり見たことを忘れていた。
かなり詳細に記している観劇日記を読み直してみて書き足すことはあまりないかと思ったが、初めて見るような気持ちでその衝撃を再び味わった。
 今回、改めて感じたことはこの演出は、ヘカテと4人の魔女と、ダンカン王、マクベス夫人、それにマクベスの3人の死体が主役ではないかということであった。
 魔女とヘカテは劇中たえず登場することによりその重要性が際立つ一方、ダンカン王は殺害された場面で、上手側のパネルが開かれると、マクベスに抱かれた彼の死体が可視化され、マクベス夫人はその死に当たって下手側のパネルが開かれてマクベスに抱かれているのが見え、その両者の死を嘆くマクベスと、ダンカン王とマクベス夫人の二人の死が鮮やかなシンメトリーとなって重なってくる。
 そして最後は、中央のパネルが両側に外開きに開かれると、マクダフに敗れたマクベスがヘカテの下に横たわって死んでいるのが見え、そのまま沈黙のうちにパネルが閉ざされて、舞台が暗転して幕となる。
 主要な出演者は、マクベスをはじめとして前回とほとんど同じであるが、マクベス夫人が神野三鈴から文学座の奥山美代子に代わっていたのが大きな違いであった。
 前回の神野三鈴のマクベス夫人に関しての感想を記していないのでその違いを比べることができないが、奥山美代子の印象度が強い気がした。
 弱気なマクベスと強気なマクベス夫人の立場が逆転するのは、マクベスが王位に就いて祝宴を開いた夜、バンクオーの暗殺が企まれるが夫人にそのことが打ち明けられなかった、その時からである。
 祝宴が無惨に終わった後、マクベス夫人を演じる奥山美代子が舞台中央の前面で、前かがみにしゃがんだ姿勢で観客席に目を向けた状態の、その眼が狂気を表していたのがすさまじかったのが強く印象に残り、夫人の狂乱の場面との対照をなした。
 夫人は夢遊病の状態ではなく、むしろオフィーリアの狂乱を思わせるもので、狂死する寸前の、「わたし、どうしちまったんだろう?!」という声が深く心に響いた。
 夫人の狂乱の場で、血のにおいを消すための手を洗う場面の叫びは、むしろ淡白で、彼女の死体を抱えて泣くマクベスの嘆きの叫びの方が長く悲痛に響いたのも印象的であった。
 4人の魔女たちは銀色の仮面を後頭部にかぶって後ろ向きの姿で登場し、後半部になってはじめて正面を向いてその素顔を見せる場面が出てくるが、素顔を見せる場と見せないで仮面の方を見せる場との違いの状況の意味が不覚にもつかめなかったのが残念である(演出上の意味があるような気がするので)。
 また、前回気が付いていて特に問題に取り上げなかったことで、'Fair is foul, and foul is fair'の訳語の問題がある。
 ベリャコヴィッチの翻案では「善は悪で、悪は善」と日本語訳されているが、これはロシア語からの翻訳なので英語と同じように多義的な意味を含むロシア語を使っているのか、それともストレートに「善」と「悪」の意味の語彙が用いられていての日本語訳なのか、そこが知りたい。
 劇中、マクベス夫人がこの言葉に相当する「禍福は糾える縄の如し」といった台詞を吐くが、それは言い換えるならば「因果応報」と重なる。そのようにとらえると、この演出の主題の一つが「善と悪」の因果応報ともなってくるのではないかと思った。
 主な出演は、マクベスに能登剛、バンクオーに豊泉由樹緒、マクダフに南保大樹、ダンカンに島英臣、アンガスと門番に星野真広、ヘカテにM.インチン、マクダフ夫人に岸並万里子などは前回と同じ、マルコムには無名塾の大塚航二朗、ほか。総勢22名。
 感想その他、前回の観劇日記(No. 2019-014)と重複する内容は今回記述を省略した。
 上演時間は、途中休憩15分を入れて、2時間45分(前回と同じ)。


翻訳(ロシア版)・コーディネート・通訳/佐藤史郎
翻案・演出・美術・衣装/ワレリー・ベリャコヴィッチ、演出補/オレグ・レウシン
12月16日(木)13時30分開演、東池袋・あうるすぽっと
チケット:5000円(シニア)、座席:C列13番、パンフレット:300円


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