高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   幹の会+リリック・プロデュース公演 『リア王』          No. 2002_027

 平幹二朗の『リア王』を観るのは2度目である。
 最初は97年、栗山民也演出での公演であった。今回は平幹二朗自らの演出で、自身が演じるリア王以外はキャステイングも大幅に変えての上演である。
 前回の印象がそれほど残っているわけではないのであまり比較すべきでもないが、今回の印象としては、新橋耐子のゴネリル、一色彩子のリーガンがいかにもつぼにはまっている感じで面白かった。
 その面白さは役に対する遊び心のようなもので、ゆとりからくるものであるような気がする。それはコーンウオール公爵を演じる藤木孝にもいえる。憎々しさを十分に楽しんで出している。今回が二度目の舞台という平幹二朗の子息、平岳大が演じるエドマンドも新鮮な演技を見せて楽しませてくれた。
 前回道化役を女優の中原ひとみが演じたが、今回は前回の公演でグロースター伯爵を演じた西本裕行が道化を演じている。そしてグロースター伯爵には、坂本長利が演じた。西本裕行の道化は静謐な感じがする。動というより静である。グロースター伯爵の坂本長利は両目を潰された後の演技がいい。リア王に抱きついて泣くところなど絶品の演技。
 前回のことはあまり覚えていないが、今回嵐の場面を最後に道化が消えてしまう演出に当たって、首をくくって樹にぶら下がった道化の抜け殻が舞台奥に表出される。
 そのことは非常に象徴的な意味を持っているような気がする。リア王が絞め殺されたコーデリアの死を嘆くとき、道化の死を思い出して、その抜け殻だけが示された道化の実態はコーデリアの中にあったということをまざまざと感じさせる。コーデリアに向かって「俺の哀れな阿呆(=道化)が絞め殺された」(And my poor fool is hanged !)というリア王の台詞で、道化の死が完結される象徴性を感じる。
 この劇を観ているとき、疲れもあって残念ながら前半の1幕目は殆ど眠っていたが、2幕目はかなり緊張感を持って舞台を見ることができた。
 リア王が絞め殺されたコーデリアを背中に背負って、咆哮しながら舞台中央奥から出てくるあたりから、観客席全体が水を打ったようにシーンと緊張感と沈黙の重さに浸されて、息を飲み込むことさえ憚れるような静寂が漂った。コーデリアの死を嘆くリア王の台詞では、目頭が次第次第に熱くなっていく。ただもう平幹二朗の演技に吸い寄せられるようにして、じっと固唾を飲むばかりであった。
 ハムレットではないが、「たかが絵そらごとなのに、かりそめの情熱に打ち込み、全身全霊をおのれの想像力の働きにゆだねる」(松岡和子訳)平幹二朗の演技に心を揺さぶられる。
 今回の舞台美術は島次郎によるが、舞台中央にはちょうどお盆のような形の円形の台座舞台。その上に終始小舟がのっており、その小舟は場面ごとに移動し、時に応じていろいろな物を表象する。
 開幕のグロースターとケントの二人の会話場面は、その周りにすでにリア王を除くゴネリル、リーガンの両夫妻、コーデリア、道化が舞台に登場しており、エドマンドがリア王登場にそなえて絨毯を敷きつめる作業をしている。
 道化は無言で小舟にその身を置いている。
 最初にそういう鮮明な印象を感じながらも、途中でかなり寝入ってしまったのは残念でもあった。

 

訳/小田島雄志、演出/平幹二朗、美術/島次郎
11月16日(土)、紀伊国屋サザンシアター


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