高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   劇工房ライミング第25回 『十二夜』             No. 2001_032

〜 ヴァイオラがステキだと心が弾む 〜

 今年は『十二夜』の当たり年。1月には俳優座のミュージカル『十二夜』と夜想会の『十二夜』、そして9月にはウイリアム館による『十二夜』があった。
 『十二夜』はシェイクスピアの喜劇として完成度の高い作品で、観る側でも期待度の高い作品である。それだけに、これだけの競演を観ることが出来たのは今年の一つの収穫でもあった。
 今回もシェイクスピア作品の公演というだけで、事前の知識も情報も持たない"劇工房ライミング"の『十二夜』をチラシで見つけて、早速eメールで予約したのが公演の1ヶ月半前。
 観劇当日購入したパンフレット(薄っぺらで中身は乏しいのに、1部1000円)によると、今回の演出者中島晴美は文学座養成所14期生、シェイクスピア・シアター2期生を経て劇工房ライミングを設立・主宰とある。
 サー・トービー役の田代隆秀も文学座研究所からシェイクスピア・シアター創立、劇工房ライミング創立に関わっている。
 このパンフレットは薄っぺらなだけでなく、劇団の情報も貧しく、宣伝効果としてはないに等しい。 それに、オリヴィア役がダブル・キャストになっているのに顔写真がないので、出演者の紹介が記載されていても、本日のオリヴィアがどちらなのか、少なくとも僕には分からない。
 観劇当日は楽日であったためか、満席のようで補助席が設けられていた。それだけでなく、当日券のために通路側の座席作りで、開演が15分以上遅れたのも腹立たしかった。公演に関係ないところで感情を左右されるというつまらないことが多すぎた。
 肝心の劇であるが。いつものように舞台美術に目が走る。
 舞台奥は、白い天幕が海原を象徴するかのように張られている。舞台上手前方と下手後方に太い角柱。天井からは裸電球が、僕の見える範囲で9個吊り下がっている。蜷川幸雄の『ハムレット』を思わず思い出させた。
 1幕1場のオーシーノ公爵邸。公爵は白菊のような花を手にして、「好き、嫌い」と花占いから舞台は始まる。このオーシーノ公爵は全体を通して愛の憂鬱とけだるさに乏しい気がした。
 山田理奈(文学座・準座員)のヴァイオラが清楚で溌剌としていて、シザーリオに扮する役柄がぴったりの感じであった。このヴァイオラだけでほかの全てが許せるような、そんな気にさせてくれた。
 それ以外のキャステイングはボタンの掛け違いのようにちぐはぐな印象を抱いた。劇団昴からの客演、北川勝博はサー・アンドルーとのイメージが合わない。かろうじて彼の演技力で救われているが、頭の禿かかったサー・アンドルーは、僕の偏見かも知れないが想定される年齢と役柄が一致しない。
 オリヴィアも口喧しい、はねかえりのはすっぱ女のようなしゃべり方で、気品に欠ける。演出がそうさせているのか、この女優の台詞回しのせいなのかは分からないが、こういう女性に惚れたいとは思わない。セバスチャンはきっと尻に敷かれる亭主となるだろう。
 山像かおり(文学座座員)のマライアは、面白い。これまで観てきたどのマライアよりも若く、色気がある。飲んだくれで落ちぶれ貴族のサー・トービーを自分のモノにしようとする一途さが、役になりきった色気を発散する。
 一番しっくりしないのが、谷昌樹のマルヴォーリオ。ハムレットに言わせれば、「大仰な仕草や台詞はやめてくれ」という所作と台詞を大見得切ってやる。でも、大衆受けするようだ。僕にはちっとも面白くない場面で、隣の補助席の若い男性は大声出して笑っている。笑いのモードが異なるので、僕には何とも言いようがない。
 ひねった演出(別に捻ってもいないか?)は、道化フェステを男(フェステ)と女(エステ)の二人で演じさせていること。エステに劇中の歌をもっぱら歌わせているが、本来の道化的要素が台詞の省略もあって欠けている。
 全体を通しても台詞の省略で気になる場面が結構あった。
 だが、ステキなヴァイオラのために許そう。いつものことながら、エンデイングの兄妹の再会は感激的だったことだし、終わりよければすべてよし、として。(不満が強いほど、思い入れも強い)


 
翻訳/松岡和子、演出/中島晴美
12月15日(土)14時開演、品川・六行会ホール、チケット:4000円、座席:D列15番


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