高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   彩の国シェイクスピア・シリーズ第11弾 『ハムレット』      No. 2001_024

〜 エンディングまで変えさせたテロ事件の衝撃 〜

 9月11日アメリカで起こった世界貿易センターの破壊をはじめとする多発テロ事件は、蜷川幸雄の演出構想まで変えさせてしまうほどの衝撃的事件であった。
 蜷川幸雄の4度目のヴァージョンとなる『ハムレット』のエンデイングは、公演3日目の16日から変更された(というこの事実を知ったのは、9月27日付、日本経済新聞の夕刊の記事によってである)。
 惨劇の場面に現れたフオーテインブラスは、ホレイショーの「どうかこれらの亡骸を公に壇上高く安置するようお命じください」という願いを実行する代わりに、両脇の兵士にホレイショーをはじめとする全員の貴族諸侯を機関銃で一掃射撃し、殺戮させる。
 このエンデイングについては、当初、日経のこの記事を読むまでは、イングマル・ベルイマンの『ハムレット』(註1)の二番煎じかと、蜷川らしくもないと内心がっかりもした。
 蜷川幸雄はそのことについて、「芝居が現実に負けてしまう」と思って、テロとも、報復とも解釈できる殺戮の場面を新に付け加えたという。
 月並みな言葉で言えば「事実は小説よりも奇なり」で、芝居は現実の前では時に無力である。
 このことでさらに懐かしく思い出されるのは、サルトルなどの実存主義者がかかげたアンガージュマンという、文学の政治性、政治参与の問題であった。
 蜷川幸雄の4度目のヴァージョンと述べたが、最初の公演は78年8月帝国劇場で、小田島雄志訳、平幹二朗主演で、25段の階段を使った舞台美術は朝倉摂。全員着物で、雛壇で演じられるスペクタル的な大空間を使っての『ハムレット』。(註2)
 2度目は、10年後の88年6月、スパイラルホールでの公演で、坪内逍遙・小田島雄志訳の併用で、時代設定を室町時代にし、全員着物で、中越司の舞台装置も前作同様に雛壇を使った階段舞台を基本構造にしている。主演は渡辺謙である。(この上演は、自分でも不思議ながら記憶がないのだが、ビデオに録画していたので、最近見直してみた)
 蜷川幸雄は、この両作品とも満足し得ず、85年10月銀座セゾン劇場での真田広之を主演とする公演で初めて得心できたと語っている。松岡和子訳で、舞台装置は同じく中越司で、階段と雛壇の基本構造は変わらない。真田広之のハムレットは、98年3月に、同じく銀座セゾン劇場で再演され、同年8月にはバービカン劇場でのロンドン公演も実現している。僕としては、蜷川幸雄演出の『ハムレット』の舞台はこの3度目のヴァージョンが初めてである(95年、98年版とも観ている)。
 この度の『ハムレット』も、舞台装置は中越司と変わらないが、舞台構造は一変する。
 彩の国さいたま劇場小ホールは、客席がすり鉢上にせり上がって、平土間の舞台を見下ろす形で、円形劇場の構造をしている。その平土間の舞台には、何もない。
 高い天井から、7本の有刺鉄線が間隔をおいて舞台床まで垂直にピンと張られていて、無機質的な雰囲気を与える。また、12個の裸電球が天井から中空までぶら下がっていて、暗示的効果を感じる。
 この裸電球が舞台の状況に応じて、明かりが点灯されたり、それがいっせいにブランコのように大きく揺れたりする。その揺れ方も一様ではない。
 たとえば、オフイーリアの狂気の場面。最初に現れたときには、その裸電球は中央の1個だけがゆらゆらと揺れている。だが、レアテイーズもいる次の場面では、今度は裸電球全部がいっせいに大きく揺れる。また、ハムレットの独白場面で、フォーテインブラスの軍隊の進軍を見送った後の第4独白では、裸電球は明かりが灯らない状態で、それが全部大きく揺れる。
 つまり、この裸電球は登場人物の心境に合わせて、また舞台の状況に合わせて、明かりが点灯されたり、揺らされたり、心理的効果を出している。裸電球の揺れ一つで心のざわめきが感じられる。
 蜷川幸雄は小劇場を大きく使うことを非常に得意としているが、ここでも舞台空間を最大限に活用し、大きな舞台効果を出している。
 第1幕第1場の城壁の場面。二人の歩哨、バナードーとフランシスコーも、続くホレイショー、マーセラスも、屋上の回廊を使って登場し、舞台がそのため大きく拡がるだけでなく、広い分だけ動きも早くなり、スピード感が出る。
 舞台は何もない空間だが、例によって階段の装置は登場する。劇中劇の芝居見物席として、またハムレットとレアテイーズとの剣の試合場面では、高見の台としての移動式階段が内舞台から引き出される。
 劇中劇で、劇中の王がルシアーナスに毒液を耳に注がれて死ぬ場面を見て、驚愕の怒りで激昂したクローデイアスは、その高見の台の階段を駆け下りて行き、役者達につかみかかって殴り倒す騒ぎとなる。
 クローデイアスが自分の罪に祈りを試みる場面では、舞台床面に、照明で十字架の形を照らし出す。
 そのほかにも演出上の細かい点で気づいたことはいくつかあるが、そのなかの一つとして考えさせられたのは、ガートルードの居間に現れる亡霊は甲冑姿で、しかも屋上の回廊に現れて、ハムレットとガートルードとの間の距離は遠く隔たっている。この場面で現れる亡霊は普通部屋着姿と考えられているので、その演出の意図が興味ある。
 また、ハムレットがイングランドに向かう途中登場するフォーテインブラスは、オートバイに乗って、上半身裸同然の姿で颯爽と現れるのも意表をついた感じである。
市村正親のハムレットは、一言で言えば、スマートでかっこいいハムレット。たおやかで柔和な表情に、憂愁を秘めている。死に向かって、徐々に疾走していく。
 舞台は初めての篠原凉子のオフイーリアも、これまでのオフイーリアの印象とは異なり、内に秘めた気性の激しさを吐露し、攻撃的強ささへ感じた。
 いつものことながら、脇を固める俳優が素晴らしい活躍を魅(!)せてくれる。
 クローデイアス(亡霊も兼役)の瑳川哲朗、ガートルードの夏木マリ、墓掘り人の沢竜二と山谷初男、他盛り沢山。

 (註1) 1988年7月、スエーデン王立劇場来日公演、イングマル・ベルイマン演出、東京グローブ座公演
 (註2) 高橋豊著「蜷川幸雄伝説」(2001年7月、河出書房新社刊)p.141参照。

 ●追記・雑話 

 蜷川幸雄 X 市村正親の『ハムレット』のテーマ性は何であろうかと考えていたが、うまく掴みきれない。
 蜷川は、劇は最初の3分間が勝負だということで、いつものことながら、開演直後は緊張を感じさせる。
 今回は、バナードやマーセラスの登場を舞台ではなく屋上の回廊からさせるので、暗い舞台に人は見えず、声は観客席の遙か後方から緊張した声で響いてきて、観る側の体を一瞬こわばらせる。
 天井から舞台床下まで張り巡らされた有刺鉄線の冷たい銀色の光は、有機体を阻害する無機物質の異物感を感じさせる。この有刺鉄線が舞台上で生きた働きをするのは、ハムレットが母ガートルードの居室に入ってくるときである。
 ハムレットは、赤い紐の束を手にして登場し、その紐を張り巡らされた有刺鉄線に巻き付け、囲いを作っていく。
 ガートルードは赤い紐の囲いの中に閉じこめられたようになり、象徴的意味を感じる。
 一番気になったのは、市村正親のハムレットである。彼のハムレット像が掴めない。舞台を観ている間は、市村のハムレットに釘付けされているのだが、見終わって、さて、このハムレットは?と考えると何も浮かんでこない。
 もともと僕は観劇直後というのは興奮して、劇の感想を適切に表現することが出来ないことが多い。
 劇の感想を書こうとすると、2,3日、場合によっては1週間もしないと何も書けないことすらある。そうすると、肝心なことを含めて余分なことは、あらかた忘れてしまう。残った感想は、気分昂揚で蒸留揮発された感情だけが記憶に留まる。その感情の記憶を便りに観劇日記を書くのが大体の僕の姿である。
 そういうことで、市村正親のハムレットは、蒸留揮発して消えてしまった方である。
 そんなことで色々考えてみて、記憶に残るのは、舞台の有刺鉄線と裸電球である。
 これは空間の舞台装置である。蜷川幸雄の舞台は、垂直軸のイメージ造形に特色があるが、この度も例外ではない。ハムレットという有機体が、無機質な物体に置換されて、あとは情念のうねりとして裸電球が活躍する。主役の交代である。
 蜷川幸雄の『ハムレット』で、ピーター・ブルックの『ハムレットの悲劇』を思い出していたら、鈴木真理さんのメール通信で、最近のロンドン公演の劇評紹介があり、興味深かった。
 メールの内容をそのまま引用させてもらうと、
 <Bard cut to the bone Peter Brook's chopped, changed and truncated Hamlet is not quite as sharp as it should be . By Benedict Nightingale, The Times、8月24日>
 <小さな劇場で配役のダブリングも多く、フォーテインブラスも登場しないため、ハムレットの劇としてのスケールも非常に小さくなってしまっている。最初の宮廷シーンをハムレットと亡霊の出会いの後に置いたため、父暗殺の事実を知る前のハムレットのアンニュイが伝わってこない。'To be speech'をイングランド出立の時に移したのは問題である。こうしてしまうと、なぜ復讐を遅らせるのか、第2幕でクローデイアスを殺す機会を見送ったのはなぜか、なぜ亡霊が再び現れ復讐を促すのかの答えがみつからない。圧縮されたスピード感のある演出により、この劇の持つ激しさが伝わってくることは評価しています>
 どちらかというと否定的評価であるが、タイムズのナイテインゲール氏は辛口の演劇評論家で、蜷川の『リア王』ロンドン公演評でも<東洋的舞台効果という独自性を持つ蜷川は、ナイジェル・ホーソンを演出するにふさわしい人物でないと感じると同時に、ホーソンのような根っから柔和な役者はリアににつかわしくない>と酷評している。(引用は高橋豊著『蜷川幸雄伝説』p.23より)


翻訳/松岡和子、演出/蜷川幸雄、装置/中越司、照明/原田保、衣装/小峰リリー
9月24日(月)14時開演、彩の国さいたま劇場・小ホール、チケット:7000円、座席:YC列5番


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