高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   劇団AUN・第3回公演 『リア王』                No. 2001_010

 昨年1月に上演されたAUN第2回公演の再演である。
 初演を見逃しているので比較はできないが、今回はキャストの客演も増えて一段とパワーアップされての再登場のようである(劇団チラシの案内から)。
 舞台奥両脇の紗幕の内側でミサの香が焚かれ、フードを被った修道士らしき姿が入れ替わり香を仰いでは立ち去る。開演までの10分間以上、オラトリオを背景に静かにそれが繰り返し続く。
 開演までは静かな時の流れであるが、開演とともに舞台は小気味よいテンポで進行する。
 舞台奥は、2枚の回転扉の構造となっており、登場人物はこの扉を通して出入りし、時には場面をオーバーラップさせて進み、非常にスピードと緊張感を感じさせる。
 舞台両脇は紗幕が覆い、13名のコロス(女優)が上半身裸形の姿で舞台進行にあわせて妖艶な動きを演じ、時に魔女の猫の鳴き声を思わせる鈴を転がすような声を上げて、舞台緊張の和音を高めている。
 コロスの妖艶で緩慢な踊りは、嵐の場面で紗幕が落とされるまで続く。
 コロスは、『リア王』の実場面と並行的に、その内面性の虚の世界を表象する役割を担っているようでもある。
 舞台を見ていてコロスに目を転じたとき、自分の内臓を見せつけられるような錯覚を抱かせる。
 紗幕を通して覗くエロスを見る自分に、苦い恥のような味を感じる。
 リア王にはエロスがない。妻という女の不在、母性の喪失が『リア王』の底流にはあるが、ゴネリル、リーガン、コーディリアという3人の娘に表現される妻、母性のエロスをコロスがその内臓として抉り出す。
 コロスの意図については自分勝手の解釈ではあるが、これまでにない斬新な試みといえる。
リア王、エドガー、エドマンドの頭はラマの修行僧を思わせる剃髪姿で、着衣も粗布で、ストイックな感じが出ている。
 舞台の使い方として面白いと思ったのは二階舞台の構造で、舞台中央奥の上方に、横に細長く窓枠を切り抜いた形で二階舞台として使われる。最初にそれが使われるのは、道化の登場の際で意表を突く。
 次は、嵐の場面でエドガーが気違いトムの振りをして隠れ潜んで住んでいた小屋で狂態を演じる場、リア王とコーディリアが再会する場、そして、ゴネリルとリーガンの二人が死んで横たわる場、などとしてこの二階舞台が用いられ、それらが切り取られた絵のような場面として印象を深くした。
 嵐の場面では、雷鳴の音響効果と照明に合わせて、上から間断なく藁の切れ端が落ちてきて、やがて舞台一面を覆いつくす。この雷鳴の音響でリア王らの台詞は絶叫しか聞こえなくなり、嵐の臨場感を高めていた。
 コロスは、この嵐を頂点にして、紗幕が落ちて一旦消える。
 舞台は松岡和子の訳を元に脚色されているが、台本が原作と異なる場面がある。
 それはグロスター伯爵が反逆のかどでコーンウオール公爵に両眼を抉り出される場面である。
 コーンウオール公爵は、原作では召使に刺されたのが元で死ぬのだが、栗田芳宏演出の舞台では、妻リーガンによって殺され、演出の意図を感じさせる場面となっている。
 また、エドガーとエドマンドの兄弟の決闘の最中、ゴネリルとリーガンはエドマンドの剣で過って殺され、エドマンドはリア王とコーディリアの処刑についての告白もなく、許しも乞わないまま絶命する。
 休憩なしで2時間30分の舞台がスピーデイに展開する緊張感の高い演出である。
 リア王の吉田鋼太郎は、シェイクスピア劇役者としての円熟味がますます加わってきた感じがする。悪い意味ではなく、彼の演技が強烈でインパクトが強いだけに、往々にして周りの演技を食ってしまうことがあるが、今回はそれを感じさせず、よかったと思う。
 グロスター伯爵の松木良方も非常に良かった。エドマンドの谷田歩も精悍な感じを与えた。ゴネリルの今泉葉子(客演)、リーガンの千賀由紀子、コーディリアの竹内泉らも、重厚な男性陣の熱演に対して好演。
 客演の間宮啓行が演じた覚めた感じの道化は、剛腕な印象を持つ吉田鋼太郎のリア王との対比として興味深い演出であった。

 

翻訳/松岡和子、構成・演出/栗田芳宏
4月27日(金)19時開演、品川・六行会ホール、チケット:3500円、全席自由席 

 

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