高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   シェイクスピア・シアター、ニュープレイス公演 『ハムレット』   No. 2001_006

〜 憤怒に絶叫するハムレット、吉田鋼太郎 〜

 照明が落とされた暗い舞台に、9つの椅子が整然と舞台中央奥に、映画の観客席のように並べられている。
 開演と同時に、白い装束に白い頭巾の者たちが、地獄の亡者のように、こそついた動作で観客に背を向けて、その椅子に腰かける。
 と、舞台奥の白い壁面にローレンス・オリヴィエの映画『ハムレット』の冒頭シーンが映し出される。
 字幕入りのスーパーだが音が消されている。亡霊たちはその映像を食い入るように見ているが、ハムレットの亡霊が現れた場面で、舞台はその余韻を残して、亡霊たちは椅子をもって立ち去る。
 フランシスコとバナードが同時に舞台に登場し、槍を交わしながら誰何する。この後、マーセラスとホレイショ―が現れ、彼らは観客席に向かって、目の前にはいない亡霊に語りかける。
 1幕2場のクロ―ディアスの国王就任演説の場面では、ハムレットは黒い服装で最後に登場し、舞台下手前方の壁に寄りかかった姿勢。この場でのハムレットは打ち沈んだ気分を出して、語り口もまだ静かである。
 しかし、亡霊と言葉を交わしてからのハムレットは憤怒で昂揚し、台詞のテンションも高くなっていく。
 出口典雄の舞台は、<何もない空間>で、台詞がすべてである。その台詞のテンポ、登場人物のテンポが舞台を創り出していく。それだけに俳優の台詞力が舞台効果のすべてとなる。台詞が演技である。
 吉田鋼太郎のハムレットの台詞は、腕ずくの力でねじ伏せるような強さがある。憤怒で、押し殺されたエネルギーが、マグマの噴出のように、台詞がほとばしる。
 ハムレットの佯狂は、躁と鬱の混濁。思いっきり陽気な振る舞いのハイテンションの「躁」と、暗く沈んだ「鬱」の状態。吉田鋼太郎のハムレットは、巧みにその台詞を演じる。
 久保田広子のオフィーリアも、好演であった。フランスに戻るレアティーズとの別れの場面の可憐な姿、尼寺のシーンの絶望に打ちひしがれた悲し気な姿、気の狂った哀れな姿を、無性格で、常に受け身でしかないオフィーリアをうまく演じていた。
 ホレイショ―を演じた杉本政志、田村真(マーセラス、劇中劇の王を演じる役者、フォーティンブラスの3役)の台詞もよかった。
 長身の山崎泰成のポローニアスは、台詞が棒読みで、棒立ちの感じがしたのが残念。ポローニアス役には年齢も若すぎた!?(オフィーリア役の久保田広子よりも若い)。ハムレットの前で道化扱いされるが、棒立ちの台詞が彼を道化にするという皮肉になってしまった。
 ローゼンクランツと墓堀人役の橋倉靖彦は、だいぶん役に乗ってきた感じがした。入団したての初めの頃は、どこか素人ぽさがあって、それも愛嬌であったが、その愛嬌を保ちながら成長している感じである。
 ガートルード役のベテラン吉沢希梨は、彼女が持っている艶が感じられない気がした。彼女の持つ艶のパワーがなくて、舞台の華やかさに欠けていた印象がした。
 同じくベテランの松木良方のクロ―ディアスも、台詞力は別にして僕のイメージには合わなかった。
 オリヴィエのフィルムは役者たちの劇中劇の前、クローディアス一行が登場してくる場面でも映し出される。
 舞台の最後の場面では、フォーティンブラスが4人の兵士の隊長たちにハムレットを担がせる命令を下した後、舞台の照明が落とされ、オリヴィエの映画の最後の場面、ハムレットの遺体が担がれて城壁の丘の上へと運ばれるシーンが映し出され、The Endのマークで舞台も終わる。このオリヴィエの映画を使う趣向が面白かった。

 

小田島雄志訳、出口典雄演出
2月17日(土)14時開演、高円寺ニュープレイス、チケット:3500円、座席:7番ヘレナ

 

追 記
 シェイクスピア・シアターによる『ハムレット』の公演は、2月9日から25日までのロングランで、全部で15ステージ。今年5月中旬には『間違いの喜劇』と『夏の夜の夢』が高円寺ニュープレイスで連続公演される。同劇場が入っているサンプラザが6月から建て替え工事に入るため、新しいニュープレイスは1年半後にオープンの予定。来年2月には、東京グローブ座で、太宰治作の『新ハムレット』と、『ハムレット』の連続上演が予定されている。(「シェイクスピア通信」より)

 

 

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