高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   『新世紀ハムレット―世紀末を穿つ』          No. 2000_05

〜 今☆和朗プロデュース公演第7回 〜

まずタイトルに惹かれた。何かにつけ2000年ミレニアムということで、祝祭的気分を嗅いでしまうこの年。
20世紀最後の年、21世紀夜明け前。そこへこのタイトル、新世紀版、世紀末の修辞句のついた『ハムレット』。
物語は、精神病院を舞台に『ハムレット』を横糸に織りなして展開する。
母親殺しの嫌疑をかけられている男が、警察から送り込まれて精神病院に入院している。
男は一言もしゃべらない。
病院長は、しゃべるきっかけを作り出そうと、男の枕元に『ハムレット』を置く。
男はその効果もあってか、言葉を発するようになる。その最初の言葉が、「生か死か」である。
一方、別の病室には、女の患者。彼女は女優で、初めての大役にオフィーリアを得るが、流産をして役を下ろされ、そのことで精神に異常をきたし、自分の事をオフィーリアだと思い込んでしまう。
この二人を軸にして、話は推理小説のように展開していく。
物語の縦糸は、この病院の病院長と事務長を中心にして、横糸『ハムレット』とが絡み合っていく。
この精神病院の前の医院長は今の院長の兄で、その兄である院長は原因不明の謎の死を遂げる。
弟が院長の妻と再婚し、病院の後を継ぐ。
兄の院長には息子が一人いたが、母親の再婚の後、交通事故死する。母親を車に乗せて無謀な暴走運転の結果の事故死である(この辺は、舞台には登場せず、病院長夫人の回想で語られる)。
患者ハムレットの言動を媒体にして、息子の死はひょっとして自分を巻き込んでの自殺行為だったのではないかと母親は疑いを持つようになる。
男の患者は、自分の言葉をしゃべることはなく、すべてハムレットの台詞で語る。
ときおり、見透かしたような男の台詞が病院長の胸に棘となって引っかかってくる。
女の患者オフィーリアは、実はこの病院の事務長がある女に産ませた娘で、事務長は偶然のきっかけでそのことを知る。その娘の母は今はなく、娘は身寄りがない。
娘がオフィーリアと思い込んでいるのを幸いに、事務長はポローニアス役で父親を演じることで娘を慰める。
院長の発案でこの二人の患者の治療の一環として、二人を自由に病院内を行動させることにし、看護婦をはじめ全員が『ハムレット』の登場人物を演じて患者と接することにする。
この二人の患者以外に、病院内を歩き回る患者がもう一人いる。彼は、存在していて、いない存在であるが、ハムレットの亡霊となって患者ハムレットに対し時に重要な役割を果たす。この男は、ある意味ではコーラスとしての存在であるかのようである。
病院長の発案は功を奏し、患者ハムレットとオフィーリアの二人は出会うことになり、例の「尼寺へ行け」の台詞も出てくる。
二人の狂気の中の『ハムレット』劇に、正気の瞬間が生まれる(と私は解釈したのだが)。
それは、オフィーリアが「愛するなら、私を殺して」と哀願する言葉である。これは『ハムレット』にはない台詞である。
男は女の首を絞めて殺そうと努めるが、結局殺せない。
死ぬことも出来なかった女は、ふらりと病院から抜け出し、自分から飛び込んでいくようにして車にはねられ、即死するが、この死ぬ場面もその情景が語られるのみである。
患者ハムレットは、患者オフィーリアの死を愛が足りなかったから自分の手で殺せなかったと嘆く。
それは、男が人前で初めて自分の言葉で語ることの始まりであった。
男は母親を愛していた。母親に男が出来たので、愛するがゆえに母親を殺したと告白する。男はその自分の気持を抑えるために自分の言葉でしゃべることをやめ、ハムレットの言葉でしゃべることで自分を吐露することから逃れ続けていたのだった。
男は狂気を装うことで自分を隠した。ハムレットが自分の気持を抑えるために佯狂を演じたように。
男の母親殺しの自供を契機にして、院長は兄殺しを自供する。殺人は、殺人を犯すことより、それを自分の胸の中に隠し続けることの方がはるかに難しい。院長は自供して初めて晴れ晴れとした気持になる。
事務長も、患者オフィーリアが自分の実の娘であったことを告白する。
この舞台には『ハムレット』のギルデンスターンとローゼンクランツや、墓掘人など登場しないが、その代わりに、病院の死体搬送人の二人がその役を担って、舞台の緊張感を緩和してくれる。その効果は、この二人が女言葉でしゃべることも手伝っている。
精神病院を舞台にした縦糸と、シェイクスピアの『ハムレット』を横糸に織りなした関係を十二分に楽しむことが出来た。

(作/今和朗、演出/今井耕二、美術/加藤ちか、
2月27日(日)13時開演、豊島区・萬スタジオにて観劇、 チケット:3500円、全席自由席)

 

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