高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   ジュリー・ティモア脚本・監督・制作、映画 『タイタス』       No. 2000_029
〜 戦慄が走る映像の衝撃 〜
 大胆で迫力満点、古代でありながら現代的。暴力的残虐性に、繊細な恐怖。
2時間30分の上映時間中、息を抜く暇もないほど、時にはその場から逃げ出したくなるような映像が次から次へと襲いかかってくる。
 シェイクスピアの『タイタス』自体が残酷性に満ちているのだが、映像でここまで表現されると嘔吐感さへ感じる。
 だが、当時のシェイクスピアの観客(=聴衆)は、このような残虐性、残酷さにむしろ快感を覚えていたのだろう。
 当時のロンドンの大衆にとっての娯楽といえば、見世物の熊いじめや、刑場のさらし首の見物などで、むしろ好んで残虐なものを好んで楽しんでいた。
 『タイタス』を聴衆が見るとき(=聞くとき)、その残酷さについて想像力が容易に働いたであろう。
 シェイクスピアが映像という手段を持っていたらどのように描き出していたであろうかと想像してみるのも面白い。
 ジュリー・ティモア監督のうまさは、物語の導入にまず表れている。
 頭に紙袋をかぶって、その紙袋には目と口のところに穴があけられていて、子供の表情はその穴を通してしかうかがえないのだが、どこか神経質で感情の起伏が激しい子供という印象を与える。
 その子供が、玩具の戦士を台所のテーブルに並べて戦争ごっこをして遊んでいるが、そのうちに戦士だけでなく、あたりにあるものをめちゃくちゃにぶちまけるようにして壊していく。
 その現代的風景から一挙に時代と場所がワープして、場所は古代ローマのコロッセウムとなり、子供は現代の少年から『タイタス』の小リューシアスへと変貌する。
 コロッセウムにゴート族を平定したタイタスが帰還してくる。
 ローマの傭兵は先ほどの子供の玩具箱から抜け出てきたかのように、ゼンマイ仕掛けで動いているようにぎこちないが、それが次第に様式化された動きへと移っていき、我々をローマの世界へと引き込んでいく。
 勝利の凱旋とはいえ、タイタスはこの戦争で20人の息子を失う。その息子たちをローマの祖先の聖廟に埋葬するには、息子たちの魂の鎮魂の生贄が必要である。その生贄は、ゴート族の最も高貴なる血で贖わなければならない。そこでゴート族の女王タモーラの長子が選ばれる。
 タモーラは泣いてタイタスに息子の救済を嘆願するが、無慈悲にもタモーラの息子は生贄として肉体は切り刻まれ、臓腑は生贄の供えとして、五体はすべて焼き尽くされてしまう。
 すべての悲劇と残虐はここに始まる。
 場面は一転して、再びワープを感じさせる、次の皇帝の選挙戦へと移る。
 オープンカーに乗った二人の皇帝候補、先の皇帝の長男サターナイナスと次男のバジエーナスが、互いに自分こそ皇帝に、と大衆に訴えている。
オープンカーなどといえば、古代ローマでは時代錯誤も甚だしいと言わねばならないところであろうが、不思議と違和感を感じさせない。
 シェイクスピア自身が多分にアナクロニズムなところがあって、それが少しも不自然でないところがシェイクスピアらしいところである。
 状況設定を考えるとき、むしろこのアナクロニズムが理解を容易にさせてくれるとさえ言える。
 護民官はじめ、大衆は次の皇帝にはタイタスこそがふさわしいと彼を推挙するが、タイタスは辞退してサターナイナスを推す。これがタイタスの悲劇の始まりとなる。
 ジュリー・ティモアの『タイタス』は、本筋においてはシェイクスピアの原作に忠実に展開する。
 イメージの映像化で象徴的なのは、タイタスの息子二人、クインタスとマーシヤスが、皇帝の弟バジエーナス殺しの嫌疑で囚われの身となって護送されるとき、タイタスは舗装された街路の石畳の街路が交差する場所に立って、二人の息子の保釈を哀願する。
 一方から、その護送集団に剣を振るったために国外追放の身となったタイタスの長子リューシアスが、そしてもう一方からは、タモーラの二人の息子に凌辱されたうえに両手首を切られ、舌を切り取られ たラヴィニアを抱いたタイタスの弟、護民官のマーカスが現れる。
 その出会いの街路の交差点が象徴的でもあり暗示的でもあって、非常に印象を深くする。
 ラヴィニアの切り取られた両手首に小枝が突き刺さっているのも痛ましさをかき立たせる。
 映画はシェイクスピアに忠実でありながら、時折ひねりがある。
 タイタスの邸で、タイタス、マーカス、ラヴィニア、小リューシアスがそろっての食事の場で、原作ではタイタスの弟マーカスが一匹の蠅を殺すことになっているが、この映画では小リューシアスが殺す。
 タイタスは蠅を殺したことで大いに怒る。
 「たかがだと?その蠅に父親があったらどうなる?きっと華奢な金色の羽根をすぼめて、空中に悲しみの羽音をひびかせたことだろう!」
 原作ではマーカスが、「許してください、この黒い醜い蠅があんまりお妃ご寵愛のムーアに似ていたので、それでつい」と言って許しを乞うが、それを小リューシアスに言わせることで、「その蠅に父親があったら」というタイタスの言葉が、父親がローマ追放の身にある小リューシアスに対して、その効果がより高まって聞える。
 アナクロニズムを随所に散りばめながら、時間的にも遠い世界のことでありながら身近な世界に感じさせてくれる。
 タモーラの息子二人がゲームセンターのゲームに興じる放蕩や、暴走族風のスタイルなどもその一つであった。
 
〜 見事な性格演技 〜
 映画のもう一つの見ものは、主役のタイタスを演じるアンソニー・ホプキンス、タモーラのジェシカ・ラング、サターナイナスのアラン・カミング、アーロンのハリー・レニックスらの名演技である。
 主演のアンソニー・ホプキンスは、タイタスを武骨にして愚直なまでのローマ軍人を見事に演じ、その愚直さが悲劇を招いたとき、自らを狂気に陥れての狂人ぶり発揮は、壮絶とも言うべきものであった。
 タモーラの妖艶な美しさと毒婦のイメージは、ジェシカ・ラングにぴったりとはまっていた。
 二人の主演にも劣らぬ好演は、サターナイナスのアラン・カミングと、アーロンのハリー・レニックス。
 ムーア人のアーロンは、『オセロー』の裏返しとも言うべき人物設定で、イアーゴーを思わせる不条理の悪である。理屈はいらない、悪い事をすることに意味がある。腹の底まで真っ黒である。黒いがゆえに、赤く恥じらうこともないとうそぶく。
 
〜 エンディングに未来は託されたのか?! 〜

 映画の終わりがまた象徴的である。
 小リューシアスがアーロンとタモーラの不義の赤子を抱いてコロッセウムから出て、曙光に向かって歩を進めていく。
 ゆっくりと、ゆっくりと、歩みを進めていくうちに、小リューシアスはいつしか大人の背丈になっていく。
 しかし、赤ん坊はそのまま腕に抱かれた赤ん坊のままである。
 朝の光は、希望を告げるかのように未来へと開いているようである。
 小リューシアスは振り返ることをしない。ただ進んでいくだけである。
 この姿に救いがあるようであれば、未来はあると言えるであろう。
 この映画で受ける衝撃は強烈だが、その残酷さ、残虐性の生々しさに、もう一度観てみたいという気持はひるんでしまう。それだけの強烈さをもった映画であった。  

(12月20日記)

 
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