高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   ASC <Only One Shakespeare 37> 第2回公演         No. 1999-020
空白

『タイタス・アンドロニカス』、『冬物語』、『間違いの喜劇』、『マクベス』を観る

 アカデミック・シェイクスピア・カンパニー(ASC)の<オンリー・ワン・シェイクスピア 37>の第2回公演が12月14日(火)から19日(日)までの6日間、銀座みゆき館で上演されたが、今回は準備不足の遅れから一般公開は17日(金)からの3日間だけとなった。
 一般公開の演目は、上記己4作品以外に『オセロー』が加わっている。
プレビューとして14〜16日に、『十二夜』、『リチャード三世』、『ロミオとジュリエット』が上演されているが関係者のみで非公開であった。
 この<オンリー・ワン・シェイクスピア 37>は昨年から企画され、今年がその第2回目となるが、昨年は『ハムレット』をはじめとして9作品が上演され、今回はプレビューを含めて8作品で、合計17作品まで上演されたことになる。劇団代表の彩乃木崇之の公演での挨拶の口上によれば、あと2年間でシェイクスピア全作品37の残り20演目を上演したいということである。

<オンリー・ワン・シェイクスピア 37>のコンセプトとして、

  1. 一人で全てをやる(構成・脚本・演出・主演)
  2. シェイクスピア作品のもつ独自のテーマ性を忠実に再現する。
  3. 自己流の創作をしない。
  4. 自己の見方を投影する。客観性をもたせる。
  5. 60分前後で演じるが、ダイジェストにしない。

 ということをモットーにしている。
 昨年は残念ながら観ていないので今回初めてということになるが、一人芝居ということで、当初朗読劇のようなものかと思っていたが、パンフレットにある上記のコンセプトを読んで幕開きが楽しみとなった。
 17日(金)夜の部では、鈴木麻矢による『タイタス・アンドロニカス』と石川伸子の『冬物語』の2演目が上演された。
 2つとも45分前後の長さで演じられ、それぞれに時間を凝縮するための工夫が凝らされていた。
時間を凝縮してもダイジェストにしないということなので、かなり至難の業である。
 しかもシェイクスピアの翻案にしないという制約までついているので、構成で工夫しなければならない。
 このような制約条件の下でシェイクスピアのエッセンスが保たれるのであろうかという疑問と期待が生じてくる。

 『タイタス・アンドロニカス』では、鈴木麻矢は小道具を用いてこの残酷劇をうまく調理して仕立てあげた。
 開幕前から幕の内側からいい匂いがしてくる。焼肉を料理していたのであるが、これはこの劇の山場ともいうべき人肉料理のイメージの予告ともなっている。
 出来上がった焼肉は開幕と共に客席に振る舞われ、最前列に席を取っていた私は真っ先にご馳走に預かるという余禄までついた。
 タイタスが息子たちの命と引き換えに自ら腕を切り落とす場面では、大根を使ってバッサリとやる。
 イメージを喚起する小道具を使うことで台詞の凝縮をカバーしている。
 「ダイジェストにはしない」というモットーであるが、全体の印象としてはダイジェスト版の感じがしたのは、シェイクスピアの詩的イメージの喚起が今一つであったためと思うが、巧くまとめ上げたという気はする。

 続く石川伸子の『冬物語』は趣をがらりと変える。
 代表的な登場人物に物語全体の構造の糸をそれぞれの立場から語らせることで、糸から布を織り上げるように物語全体の骨格を映し出すという仕組みになっている。
 まずポーリーナが物語の発端からその顛末までの有様を語るが、語る色調はその内容からも暗く、全体的雰囲気もそのように演出されている。
 続く場面は一転して明るく、シチリア王の娘パーディタを拾って育てた羊飼いの語り。
 そして最後が、このロマンス劇のヒロインであるシチリアの王妃ハーマイオニが物語るという構成になっている。
 一人一人が語る物語は、話の進行からすれば、それぞれが前後する内容を語ることになるが、イメージ的にはシェイクスピアの詩的な気分を伝えるものがあったように思う。
 大人の劇であった。

 翌18日(土)のマチネでは、客演の佐々木淑子による『間違いの喜劇』。
 これがお目当ての観客が随分いたように思われる。
 正直な話、今回のシリーズではこの演目が一番の傑作であったように思う。
 話の展開はオリジナルそのものを踏襲しているが、趣向を凝らしていて客を引き付けてそらさないだけでなく、笑いを大いに誘った。
 登場人物をすべて動物に振り当て、ぬいぐるみを椅子に置いての一人芝居である。
 開演前にこれらのぬいぐるみを幕の外の舞台の上に集めて並べ、<動物に餌を与えないで下さい>という注意書きを張り出しており、何が始まるのかと期待がわいてくる。
 エフェサスの公爵ソライナスは佐々木淑子扮するサーカス一座の団長が演じるということで、ぬいぐるみではなく本人がそのまま演じる。
 それ以外は、シラキュースの商人イージオンは「亀」、双子のアンティフォーラス兄弟とドローミオ兄弟は、それぞれ二匹の「猿」と「犬」、金細工師のアンジェロは「鶏」、アンティフォーラス兄の妻エドリアーナは「虎」、その妹ルシアーナは「猫」、女中のネルは「象」、娼婦は「蛇」、イージオンの妻エミリアは「羊」、ドクター・ピンチは「蛸」という具合で、それぞれの役では、その動物の声色と“しな”を作り、一人百面相の大熱演である。
 話の展開にもそれぞれの始まりに、<イージオンの身の上話>、<恋に落ちたアンティフォーラス弟>などといった口上書で説明され、次はどんな題を付けてくるかという期待で楽しませてくれた。
 上演時間は1時間強であったが、気分最高の楽しい1時間であった。

 次の演目は、当劇団代表の彩乃木崇之が演じる『マクベス』。
 前口上で、2年前の本公演をそのまま一人で演じるということであったので相当に期待したのであるが、これは期待外れに終わった。
 本公演では休憩なしで2時間かかった舞台を、一人でやるので<間>を濃縮できるであろうと思ったが、稽古時間を計ると1時間半かかったということで、この<オンリー・ワン・シェイクスピア>のコンセプトを代表自ら無視して、そのままの長丁場を一人で演じた。
 本公演の登場人物が醸し出すアンサンブルの雰囲気の効果が、一人芝居ではそのままの形で演じると無理が生じて平板なものとなってしまった。
 熱演すればするほど、どこか心が遠くへ離れていき、期待が大きかっただけに残念であった。
しかし、『マクベス』の本公演を観ていない私にとっての収穫は、その解釈の工夫が再現されたのを観る機会を得たということであった。
 その一つに、マクダフがイングランドに逃亡したという報告を受けた後、マクベス夫人が死産をしたという知らせが入ることと、今一つは、この劇の終わり方で、マルカムの戴冠式に臨む台詞の後、弟ドナルベインが独りだけ舞台に残り、自分に向かって「やがては王になられるお方」と言って、劇の円環構造を暗示する。
 個人的には一人芝居はあまり好まないのだが、この<オンリー・ワン・シェイクスピア>は、シェイクスピアへの試みのチャレンジ精神として評価したい。


(12月17、18日、銀座みゆき館にて観劇)

 

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