観る側にとっても興味あることだが、演出家ならではの楽しみというのは、素材としての作品(戯曲)をいかように料理するか、つまりどのように解釈するか、俳優に託して自分の解釈を体現することにあるのではないだろうか。
そういう意味において、鳥海仟の訳・演出による『夏の夜の夢』の公演は興味ある内容であった。
原文の解釈、翻案の意図がストレートに伝わって、ちょうど今、"シェイクスピアの森の会"で原文を会読している最中の作品でもあることから、解釈の仕方を直接的に感じることができた。
幕開きは原文とは異なり、夜=妖精の世界から始まる。
これから始まるのは、夢の世界での出来事であることを象徴するかのようであった。
ヒポリタは、武力で征服され、力ずくで結婚を余儀なくされたアマゾンの女戦士として現れ、衣装も女戦士のいでたちで、手には革の鞭を持って登場する。
1幕1場のシーシウス公爵のヒポリタへの台詞、
「ヒポリタ、私は剣をもってあなたの愛を求め、
あなたの心をかちえたのも力ずくであった」 (小田島雄志訳)
を目に見える形に演出している。
言葉では表現されていても実際には登場しない人物であるインドの少年(changeling)を登場させて喋らせたり、妖精パックを二人に分けたりして、独自の解釈、演出を試みている。
曲解がなく非常に素直な振り替えであるので、シェイクスピアをまったく読んだことのない人にも分かりやすい演出だと思った。
ヒポリタとシーシウス公爵の婚礼まであと4日という台詞と、舞台上の実際の時の経過は2日でしかない矛盾も、妖精の世界の一夜は人間の世界の二夜に相当すると喋らせることで見事に解決づけし、婚礼の日の月明かりのない新月の夜も満月の夜と台詞を直すことで、ボトムをはじめとするアテネの職人たちの台詞と矛盾なく整合させている。
ただここで、はたと疑問に感じたことは、新月と満月の矛盾がありながら、シェイクスピアはなぜヒポリタとシーシウスの婚礼の日を新月の夜の日に設定したのか、後のことを考えれば満月の夜に設定しておけば何の矛盾もなくすっきりするというのに。
新月の夜にした、あるいはしなければならない特別の意味があるのであろうか。
これは今回の演出の意図とは関係なく、月の矛盾を外されたとき、ふと気が付いたことである。
プログラムで鳥海仟氏が紹介しているキャサリン・ブリッグズ著『イギリスの妖精』によると、妖精たちが一番活躍するのが満月の夜であるとするならば、余計に結婚式の日を新月の夜としたことの必然性を探りたくなる。
話の筋に整合性を持たせることで、逆に新たな疑問を呼び起こし、シェイクスピアって実に楽しく、面白いなと改めて思ってしまう。
全体的には、若い俳優さんたちでみずみずしさを感じさせ、溌溂とした雰囲気がよかったと思うが、反面、イージアスなどが若すぎて今一つ重みがないと感じたのは、ないものねだりだろうか。
鳥海 仟 訳・演出
3月16日(日)、16時開演、野方区民ホール(野方WIZ)、6列11番
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