高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   劇団民藝公演 『巨 匠』                    No. 1997-004
空白

 舞台は、ワルシャワの大きな劇場の楽屋。
 今夜、シェイクスピアの『マクベス』の初日をあけるという人気俳優が、ダンカン王を殺す直前のマクベスのモノローグが、演出家のプランと合わないということで議論をしている。
 俳優は心の中のわだかまりとして抱えていた20年前のわずか1時間の体験を語り始める。
第二次世界大戦終結直前の1944年、ワルシャワ蜂起がナチスに壊滅させられ、それに参加していた若き日のその俳優は逃亡の末、小さな町の、今は空き家となっている小学校にころがりこむ。
 そこには、女教師、医師、元町長、音楽家、そして老俳優がいた。
 その老俳優は旅回りの俳優でしかなかったのだが、自分には運がついていなかっただけで、運があればワルシャワの舞台にも立つことができたのだと、自らを信じ込ませるかのように語っていたので、いつしかその避難所では、揶揄をこめて「巨匠」と呼ばれていた。
 そこへ、前夜のパルチザンによる鉄道爆破の報復にゲシュタポが現れ、5人の知識人のうち4人を銃殺するという。
 老俳優が持っていた身分証明書は、「簿記係」となっていたので知識人のリストから外される。
 老俳優は、俳優志望の青年に、自分がいかに才能があって運に恵まれないだけの俳優であったかを語った後でもあり、自らのアイデンティティを、その危機的状況のなかで、おそらくはじめて強烈に意識したからでもあろう、ゲシュタポに向かって、自分は「俳優」なんだと主張する。
 それは彼にとって死を意味することだが、老俳優はそんなことは頭になく、あるのは俳優としての自己のアイデンティティだけであった。
 老俳優は俳優であることを証明すべく、ゲシュタポの選んだ箇所の台詞を暗唱させられることになる。
 それが、ダンカン殺しの直前の、短剣の幻を前にしての独白場面である。
 名優としての演技ではないが、執念を感じさせる迫真の演技を、老俳優演じる大滝秀治が見事に演じ切る。
 簿記係としての身分証明に身を任せていれば死ぬこともないのに、老人は「俳優」としての自己を、一生一度の思いで自分をつらなく。
 これは俳優志望の青年を前にしての見栄といえば言えないこともないかもしれない。あるいは、これまで周りの者に対して自分は俳優であるということを主張してきた手前かも知れない。
 それは見る者の感じるままに任せてもいいと思う。
 『巨匠』を観て感じた緊張感は、作者木下順二が語る「作家自身のなかに、自分がいま生きている状況といやおうなく対決する、あるいは対決すべきものがあって、それがドラマの展開に、また人物の対立にかかわっていくことがなければ、ドラマが成立したとは言い難い」というが、まさに老俳優がその状況のなかに位置していることから生じてくるものだろう。
 老俳優が心に温めていた作品がなぜシェイクスピアでなければならないか、そしてなぜ『マクベス』でなければならないか。木下順二のこの作品は、ポーランドのジスコワ・スコヴロスキ作の『巨匠』によっているという。その原作者の意図に興味を覚えた。
 そして、その人気俳優がどんなマクベスを演じるか、僕たち自身への問いとして残して舞台は終わる。
 休憩なしの、わずか1時間余りの舞台に、非常な緊張感を感じた。

 

作/木下順二、演出/内山 鶉
1月26日(日)14時開演、俳優座劇場、チケット:5500円、座席:10列17番

 

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