高木登劇評-あーでんの森散歩道
 
   幹の会+安澤事務所プロデュース公演 『リア王』        No. 1997-001
空白

〜 紀伊國屋サザンシアター開場記念公演 〜

 ライフワークとしてシェイクスピア全作品上演に精力的に取り組んでいる平幹二朗のこの『リア王』は何作目になるのであろうか。シェイクスピア全作品を原書で読破したいと取り組んでいる自分としては、同じように壮大な希望をもって実践している平幹二朗の上演は全部見たいところであるが、残念ながらすでにもう何作も見落としている。
 気宇壮大で、およそ非現実的な大悲劇を平幹がどのように演じてくれるか楽しみにしていた。
 あまりに非現実的な感じのため実際の上演で肉体的な感動をこの『リア王』から感じることはほとんど不可能ではないかと思っていた。その予想を見事に裏切ってくれたのが松本幸四郎が演じるリア王であった。コーデリアとの再会、そしてコーデリアの死体を抱えての悲痛な嘆きに、見ていて本当に泣けてしまった。
 色々な『リア王』の上演を何度か観てきたが、劇として本当にすごいと思ったのは、この松本幸四郎のリア王を見てからである。この時の演出はジャイルス・ブロックで、装置が石井みつる、衣装デザインがワダミエであった。装置、衣装にも感心したのを覚えている。
 平幹のリア王に泣けるだろうか?というのが僕の第一の尺度であった。
 肉体的な感動が得られるかどうかが評価の基準であった。
 所詮劇は絵空事。その絵空事に、人はある時は泣き、ある時は笑い、またある時は感動する。
 そしてそれは意識しないまでも、虚の世界であることを暗黙のうちにも認めている。
 『リア王』はこの虚があまりに大きすぎて、絵空事が本当に絵空事にしか思えなくなってしまうという、上演の立場からすると非常に危険な位置に立たされる。
 悲劇性が大きすぎるために、えもすると滑稽に化してしまう。実際にそれを逆手に取ってリア王をちゃかした上演もある。95年、東京壱組の世界名作全集と銘打っての『リア王』などがその例であろう。
結果を先に言えば、平幹のリア王に泣いてしまった。僕だけでなく、終演後周りを見渡してみるとハンカチで目頭をぬぐっている人があちこちにいたので、この感動は僕だけのものではなかった。
 リアの狂気と正気が振り子のように揺れ動き、その境があるようであるようでないのが『リア王』の恐いところであり、面白いところであると思う。それを演ずる側からすると非常に難しい要求だと思う。虚(きょ)が嘘(うそ)になってしまい、芝居の約束事が脆くも崩れてしまい、滑稽になる。
 リアの狂気と正気の触媒ともいえるのが道化役であろう。従ってこの道化役もキャスティングの難しいところだと思う。
 今回道化役を演じたのは女優の中原ひとみ。多少楽しみにしていたのだが、ちょっと繊細過ぎるかなと感じた。太すぎても過ぎたるは及ばざるがごとしだが、リアを演ずる平幹とのバランスからみて、中原ひとみの道化は細いと思わざるを得なかった。
 今回演出にあたって演出家の栗山民也が、シェイクスピアがわれわれの同時代人であるということを自分の中で証明できればいいのだがと、翻訳者の小田島雄志と平幹二朗との鼎談(プログラムの「シェイクスピア劇の魅力」)でその抱負と期待を語っている。
 その鼎談の中で小田島は、シェイクスピアの四大悲劇と3つの問題劇の時期を、「内的カオス」というキーワードで呼んでいる。
 具体的には、それまで自分が信じていたもの、人間観、世界観、自己観といったものが、なにかの衝撃で崩れ去ってしまう、なにかを判断する価値基準や行動基準がぜんぶ崩れてしまっている、そういう状態に置かれた人間がどう行動するか、ということがこの時期のシェイクスピアの最大のテーマであった、肯定と否定が同時に現れる、そしてこのことはとても現代に通じるテーマであると小田島は考えている。
 われわれはなにを基準に行動すればよいのか、現代は価値の多様化を通り越して、価値のカオス化の時代を迎えているのではないかと彼は投げかけている。
 そうやってみると、シェイクスピアはまさにわれわれの同時代人である。
 平幹は、リアを演じるに当たっての抱負と期待として、演出家がどこでも見たことのないリアを演じることをあげていたが、この点についてはその比較を断じるほど多くの『リア王』を観ていないので自分の印象の範囲でしか言えないが、やはり先にあげた松本幸四郎のリア王と比較せざるを得ない。
 そのどちらにも感じたことだが、リアを演じるには相当の体力を要するということである。それはなにもリアがコーデリアの亡骸を抱えて歩くという肉体的体力だけではない、リアの狂気と正気を演じる精神力からくる体力である。
 小田島が平幹について「感情の火柱が太い」という面白い表現をしている。
 この感情の火柱の太さがリアの狂気をリアルに感じさせており、感情の火柱が狂気の肉体的体力を支えている。
 その強靭な体力を平幹も幸四郎も備えている。
 リアは若い役者ではさまにならないが、かといってこれほど体力を要する役柄だとあまり歳を取ってからだときつい仕事だと思う。とは言いつつも役者の元手は体力のみ。
 仲代達矢はその著書『役者』のなかで、「芸とは、枯れたものであってはいけない。芸とは、ぎらぎらと活力にあふれ、血のしたたるようなものの筈である・・・やっぱり五十歳になるまでは、しんどくも活力を大切に、枯れた芸はおあずけにしたい」と書いているが、リア王も決して枯れていない、むしろぎらぎらしている。活力のかたまりみたいなところがある。

 

小田島雄志訳、栗山民也演出
1月12日(日)13時30分開場、紀伊國屋サザンシアター、チケット:6000円、座席:5列23番

 

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