高木登 観劇日記2021年別館 目次ページへ
    燐光群公演 『地の塩、海の根』           No. 2024-019

 開幕は、マエセツとも、プロローグとも、口上とも言える猪熊恒和の語りから始まるが、その内容は当日劇場内で配布されたA3サイズを二つ折りにしたパンフレットに書かれている文章そのものである。
 ロシアによるウクライナ侵攻の劇を、1939年に発表されたヨゼフ・ヴィトリン作の未完の小説、『地の塩』を縦糸に、そして現在のウクライナ戦争を横軸に「海の根」としてその二つの間の出来事を交錯させて劇は展開される。
 ウクライナの歴史は複雑で分かりにくい。もともと遊牧民の国家(と言えるのかどうか?!)で、ポーランドの支配下にあったり、ロシアに組み入れられたりして、この劇の中、「地の塩」でもウクライナが何処に帰属しているのか分からなくなる時がある。
 ロシアのウクライナ侵攻を機にして、岩波文庫から『シェフチェンコ詩集』(藤井悦子訳、2022年10月刊)が出されたが、この200年前の詩人の詩をその時初めて読んだとき、今のウクライナだと思ったほど状況が似通っているのに驚きを感じたのを思い出す。
 この詩集に収録されている22篇の詩は、1843年から45年までの足掛け3年の間に執筆されたもので、その詩の存在は知られていたものの、詩人が生存していた間も、帝政ロシアが倒れてソヴィエト連邦となった間も出版されず、完全な形で出版されたのは詩人の死から100年以上経ってからである。
 『地の塩』の作者ヴィトリンはポーランドの作家で、ポーランド語で書かれており、ウクライナ語訳はなく、ロシア語訳しかない。「海の根」の主人公の少年はこの小説をロシア語で読むつもりはなく、父親がウクライナ語に翻訳しているのを待っている。そしてこの少年は、ロシアのウクライナ侵攻でロシアに連れ去られ、洗脳教育を受ける。
 『地の塩』の主人公ピョートルは鉄道の信号係で、戦争勃発とともに徴集されて戦場に赴くところまでが描かれているが、彼は戦場で死んだようにも見えるが、無事に妻の待つ家に戻っているようにして終り、それはピョートルの夢なのかどうか、見ている側からは曖昧である。
 現在のウクライナはクリミアを舞台にして、ロシアの領土となっているクリミアを「海の根」としてウクライナと心の底でつながっているものとして少年は考える。
 劇は『地の塩』の物語と、この現在のウクライナ侵攻を交錯させて描き出し、見ている者をして現在、今を感じさせる。そして、シェフチェンコの詩を思い出させた。
 『地の塩』をウクライナ語に翻訳しようとしている少年の父親役を土屋良太が演じ、名取事務所所属の森尾舞などの客演を含めて、総勢20名近い出演(燐光群の大西孝洋は怪我のため休演)。
 上演時間は、休憩なしで2時間30分。濃密なる舞台で、気を張り詰めて集中して観て、いい意味での疲労感を感じた。


作・演出/坂手洋二
6月25日(火)19時開演、下北沢ザ・スズナリ、チケット:3800円、座席:E列10番

 

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