高木登 観劇日記2021年別館 目次ページへ
    劇団俳優座公演 No. 356 『野がも』           No. 2024-018

~「野鴨」から「野がも」へ~

 ぼくはこれまで『野鴨』を原千代海訳で読んできた。今回、劇団俳優座が上演するのは毛利三彌訳の『野がも』。
 その毛利三彌は、「『野がも』について」と題してパンフレットに「わたしの翻訳で、従来の『野鴨』の題名を『野がも』に変えたことには、明らかに(チェーホフの)『かもめ』の影響がある」と書いている。それは、チェーホフの『かもめ』が喜劇と銘打っているのに対して、イプセンが『野がも』を悲喜劇だと言っていることに関係している。
 イプセンの戯曲は場面設定の情景描写が細かく指示されているので、スタジオのような舞台で十分にその感じが出せるのだろうかというのが観る前にずっと感じていたことだった。結論から先に言えば、スタジオ公演でも可能な舞台設定と演出で、自分の懸念は杞憂に終わった。
 舞台は鉤型の観客席の対角線上に長いテーブルが置かれ、その背後は長尺の帯状のカーテンで仕切られ、その奥は屋外とも、納屋ともなる。舞台上手側は台所や居間などに通じている設定で、観客席の背後、つまり会場の入り口側が家の出入り口となっている。この舞台装置は、この劇の主人公の一人でもある写真屋のヤルマールのスタジオ兼リビングの役割を果たしている。この部屋は、天井の三角屋根で屋根裏のような雰囲気である。
 開幕は、ヤルマールの妻ギーナと一人娘のヘドウィックの二人の会話の場面から始まる。原作では、それは二幕の場面である。翻訳者の毛利三彌によると、第一幕のヴァレル家のパーティの場面はよく省略されることがあるとあったので、この演出でもそうなのかと思った。しかし、途中からパーティの場面となって、ヴェレルの息子グレーゲルスとヤルマールが話を交わしているパーティの場面となる。この一幕と二幕の交錯が後々の場面においても同じような手法が使用されていて、隠された秘密を暗示する役割を果たしていて効果的に感じられた。
 舞台は、グレーゲルスとヤルマールの二人を軸にして展開していく。二人の関係は悲劇をもたらすものであるが、二人の存在はむしろ喜劇的である。
 グレーゲルスは、ヤルマールが欺瞞の上に成り立っている生活に無頓着であることが耐えられない。グレーゲルスは自分に対してより、他人に対して嘘のない真実の上に立脚する理想の生活を求める。その犠牲者となるのがヤルマールである。そのグレーゲルスが異常なほど執拗に自分の理想を押しつけることによって、ヤルマールの一家は悲劇的状況に陥ってしまう。ヤルマールが悲劇の深みはまっていくほどにさらに一層追いうちをかけていくグレーゲルスを見ていると、観客としての自分に感情移入され、グレーゲルスに腹立たしさを感じるようになるだけでなく、ヤルマールの愚かさ加減にもいらだたしさを感じてしまう。つまり、この二人を演じる志村史人と斉藤淳の演技に引き込まれていってしまうのだった。しかし、本当の犠牲者はヤルマールの娘のヘドウィック。彼女の死が痛ましい。彼女の悲劇を前にすると、ヤルマールの悲しみ、悲嘆はむしろ喜劇である。
 出演は、グレーゲルスの父、豪商ヴァレルに加藤佳男、ヤルマールの父、老エクダルに塩山誠司、ヤルマールの妻ギーナ・エクダルに清水直子、セルビー夫人に安藤みどり、医師レリングに八柳豪、ヘドウィグに釜木美緒など、総勢13名。
 出演者が13名ということで思い出したのは、ヴァレル家のパーティの参席者が13名で、そのことにヴァレルが気付き、その余分な客が、息子が招いたヤルマールであったことだった。出演者の数とこのパーティの参席者の数は、偶然の一致か、それとも意図的なことであるのか興味深いところである。
 上演時間は、途中休憩15分をはさんで、2時間40分。


作/ヘンリック・イプセン、訳/毛利三彌、演出/眞鍋卓嗣、美術/杉山至
6月10日(月)14時開演、俳優座スタジオ、
チケット:(シニア)5000円、パンフレット:500円、座席:3列9番

 

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