シェイクスピア以外の観劇記録・劇評

 

2017年9月の観劇日記

019 2日(土)14時開演、演劇集団マウス・オン・ファイア公演 『ゴドーを待ちながら』

作/サムエル・ベケット、演出/カハル・クィン(Cathal Quinn)
制作/メリッサ・ノラン(Melissa Nolan)
出演/ドンチャ・クロウリー(エストラゴン)、ディヴィド・オマーラ(ウラジミール)、
  マイケル・ジャッド(ポッツオ)、シャダーン・フェルフェリ(ラッキー)、下宮真周(少年)
両国・シアターX、チケット:1000円


【観劇メモ】
日本・アイルランド外交関係樹立60周年/シアターX創立25周年記念で、今回初のシアターXと演劇集団マウス・オン・ファイアによる共同製作。 演劇集団マウス・オン・ファイアは、アイルランド出身のベケットを上演するためにベテランの俳優たちによって創設され、ベケット自身の演出ノートを基にベケット演劇の本質を研究、2013年以来5度目の来日。 マウス・オン・ファイアのベケット劇来日公演は昨年観たような気がしていたが、記録を辿ってみると2013年2月の初来日公演の4つの演劇詩、「オハイオ即興劇」「あしおと」「あのとき」「行ったり来たり」以来だからもう4年前になる。その時の印象は、アイルランド英語の美しい響きであった。 『ゴドー』の内容は分かっているので、できるだけ英語の音を楽しむようにして聴き、観た。 木枯らしのような風の音とともに幕が開いていく。 舞台上手奥に、真っ白な枯れ木(ジャコメッティの彫刻を感じさせるような、針金からできたような木)、舞台中央奥ではウラジミールが観客席に背を向けて黙って立っている。 下手の手前には岩の上に座って一生懸命片方の靴を脱ごうとしているエストラゴン。 二人の会話の間合いから生じる緊張感、会話の微妙なずれは高度な漫才劇を観ているようである。 二人の会話のズレを象徴するわけではないだろうが、時おり字幕に目を移すと、訳に意味内容のズレがあったり、まったく飛ばされたりしていることが多々あった。 ベケットを専門に演じるための劇団で、しかもベテランの俳優であるだけに、台詞も演技も絶妙な味わいがあった。 難解な劇としていろいろな解釈が試みられたりしているが、意味を考えるより、そのままを楽しみたいと思ったが、それを十二分に楽しむことが出来た。 1000円という低料金で、このように質の高い劇を提供してくれるシアターXに感謝。 観劇した当日は満席であった。 上演時間は、途中15分間の休憩を挟んで2時間20分。 

 

020 4日(月)14時開演、加藤健一事務所公演 『喝采』

作/クリフォード・オデッツ、翻訳/小田島恒志・小田島則子、
演出/松本祐子、美術/乗峯雅寛
出演/加藤健一、竹下景子、浅野雅博、林次樹、寺田みなみ、大和田伸也、山路和弘
下北沢・本多劇場、チケット:5400円、座席:F列14番

【観劇メモ】
喜怒哀楽をすべて味あわせてくれ、その上にサスペンスを含み、たっぷりと楽しませてもらった。
公演3週間を前にして主役が突然降りてしまい、プロデューサーのクック(大和田伸也)、演出家のバーニー(山路和弘)、脚本家のアンガー(浅野雅博)、舞台監督のラリー(林次樹)が沈鬱な表情で考え込んでいる。
バーニーはアンダースタディのフランク(加藤健一)の起用を提案するが、クックは一蹴する。
フランクがアル中で台詞も覚えられないということで反対するクックから、バーニーはフランクのかつての名演技が忘れられず、またアル中から立ち直ってカムバックした名優の例もあることから、最低限の契約条件でフランクを起用する了解を得る。
自信を喪失しているフランクを何とか説得したバーニーは、フランクからアル中になった原因が妻のジョージ(竹下景子)にあることを聞かされ、バーニーもそれをすべて信じ込んでしまう。
フランクとジョージの二人の関係は、観客である自分たちも劇の半ばまで、フランクの言うことを信じ込ませてしまうほどの名演技で、どちらの言っていることが正しいのか迷って、サスペンス的な気分にさせられる。
フランクは誰にもいい顔をしたいがためにジョージに言った不平もバーニーの前では否定してしまうので、フランクの言うことを信じて疑わないバーニーはすべてジョージの責任にしてしまい、彼女をニューヨークに帰してしまうことを決意する。
がそのことで、フランクの言っていたことが全て嘘で、彼が言っていたジョージの病気は実は自分のことを言っていたことだとバーニーにもやっと分かり、今度は逆にジョージにフランクのために残ってくれと頼むことになる。
これまでの仕打ちにジョージはバーニーに反論するが、バーニーから突然抱き寄せられてキスされる。
そして公演は大成功をおさめ、クックも契約更改をフランクに申し入れることになる。
しかし、公演が始まると用なしになるのが演出家、それまで自信家で野心家であったバーニーはフランクに献身的に仕えてきたジョージに、フランクと別れて自分と結婚してくれと申し込む。
ジョージもそれに心を動かされ殆どその気になってしまうが、幕間に戻って来たフランクがその場の空気を読んで、ジョージにいつまでも一緒にいてくれと頼むが、彼女は一瞬、別れることを持ち出そうとするが、その時舞台監督から次の出番の声がかかりフランクは出て行き、彼女は言い出せないままとなり、結局はフランクと一緒にいることにする。
少し苦みをもって、すべてが丸く収まるハッピーエンドで、良質な、演劇的カタルシスを大いに味わうことが出来た。
主演の加藤健一演じるフランクとその妻ジョージを演じる竹下景子、そして自信家で野望を抱いた演出家バーニーを演じる山路和弘の3人を中心とした舞台であるが、脇を固めているプロデューサーで傲慢なクックを演じる大和田伸也の野太い声が魅力的で、この劇がまだ3作目という駆け出しの作家アンガーを演じる浅野雅博が人の好い好青年を演じ、舞台監督の林次樹や、新人女優の寺田みなみなど、出演者全員のそれぞれ味わいのある演技を堪能させてくれた舞台でもあった。
上演時間は、途中15分間の休憩を挟んで2時間40分。

 

021 8日(金)14時開演、文学座アトリエ公演 『冒した者』

作/三好十郎、演出/上村聡史、美術/乗峯雅寛
出演/大滝寛、中村彰男、若松泰弘、大場泰正、佐川和正、奥田一平、金沢映子、栗田桃子、
   𠮷野美紗、金松彩夏
信濃町・文学座アトリエ、チケット:(4300円)、座席:A列26番

【観劇メモ】
3幕仕立てで途中に2回10分間の休憩を挟んでの3時間50分に及ぶ重い舞台であった。
1幕目は、思想がむきだしの言語の台詞で重苦しく息がつまる思いで、そのために左隣に座っていた高齢の方は殆んど寝ていた(目をつむって下を向いていた)が、1幕が終わると隣の女性と帰ってしまわれた。
2幕目は、少しサスペンス的な内容で1幕ほどは重苦しくなく、その先を見る期待感もわいてきた。
文学座通信8月号に掲載された作者三好十郎のあとがきによると「この作の中で、私は、現在という瞬間が人々に投げかけている諸問題を同時的に、そしてこんがらかったままで、未解決のままに投げ出した」とある。
三好十郎がいう「現代」とは、この作品が書かれた1952年の朝鮮戦争のさなかであった。
真ん中が丸い皿状に抉ったようなクレーターを思わせる大きなくぼみのある、なだらかな丘陵のようにせり上がった舞台で登場者たちは傾斜のある舞台に立っての演技で、その傾斜は抽象的に不安と不安定を表象化して、心理的に不安定感を抱かせる舞台装置となっている。
この舞台装置は、高台に建つ3階建ての元満州国の高官の邸宅で、部屋数が24 、5もあるが数カ所焼夷弾で焼け落ち、現在使える部屋が7つ、8つしかなく、その中に5家族(?)9人と、3階に住むこの作品の語り部ともいうべき「私」を入れて10人がそれぞれ1、2階に分かれて住んでいる。
1幕の冒頭ではかなり長い時間、「私」(大滝寛)の独白が続き、これがひりひりする思想むき出しの言語での台詞で、冒頭から重苦しい気分にさせるが、表向き平穏無事で、食事は女性たちが持ち回りで全員の分を作って食堂で全員が揃って食べるとい、和気あいあいの気分で、何事もなく共同生活が営まれている。
その平穏な均衡が崩れるのは、「私」を先生として尊敬し慕っている演劇研究生の青年須永(奥田一平)が、ある日、皆が食事中をしている最中、突然やって来たところから始まる。
「私」は、長い間音信不通であった須永が突然やって来たことの理由を尋ねるが、須永ははっきりとは答えない。
新聞を読んでいた元株屋の若宮(若松泰弘)が、ピストルで3人を殺した犯人の名前が須永となっているのに気づく。
須永は、恋人だったあい子と心中するつもりでいたが、あい子は彼を残して一人で先に死んでしまう。
須永はあい子の死んだ後もあい子の家族の元を訪ね続けるが、彼女の父親からピストルを突き付けられ今後は一切来ないでくれと言われ、父親が後ろを向いた瞬間に自分のズボンのベルトで彼を絞め殺す。そこに居合わせたあい子の母親と軍服姿の米屋を反動的にピストルで撃ち殺してしまう。
あい子がなぜ約束を反古にして須永を残して一人死んでしまったのかその理由は須永にも分からないが、あい子が死ぬ前に須永とセックスを迫られ、その約束を果たす前夜に自殺したことから、医師である舟木(中村彰男)は、フロイド的解釈であい子の継父と彼女の母親との性生活を目撃してのセックス嫌悪症、もしくは継父から犯されたことからのセックスへの嫌悪症という診断を下す。
しかし「私」は、須永がなぜあい子と心中する気になったのか、その理由が分からないので、何度も彼にその理由を尋ねる。
その一方で、須永の存在を媒体にして、この邸宅での共同生活の均衡が崩壊していく。
この邸宅の所有者は90歳になる「伯母」で、その相続人はこの家の主人であった元満州国の高官と赤坂の芸者との間に生まれた柳子(栗田桃子)で、若宮は彼女の後見人的存在、柳子と結婚するはずであった高官の遠縁にあたる浮山(大場泰正)、さらに高官の遺言状を基にその権利を主張する医師の舟木などが、この邸の権利相続をめぐって醜い腹の探り合い、争いが始まる。
舟木の妻(金沢映子)は敬虔なクリスチャンで夫が本性をむき出して、劇薬を使って誰かを殺すかも知れないと「私」に助けを求めるが、舟木を信頼する「私」は彼女の言葉を容易には信じないが、若宮に対して心臓病での死の宣告を本人に告げたことで彼に対する疑いを抱く。
殺人者である須永に異様な関心を抱いて柳子が彼を求めて追い回し、須永は必至で逃げ回る。
その時の須永の姿は、上半身肌にされ、両手を広げ、膝までの白いロングパンツ姿で磔刑のキリストを想起させただけでなく、この一見平穏無事な共同生活の中に闖入して平和な均衡を崩した須永は、終始キリストのようであった。
その須永は「私」を先生と敬って尊敬していたが、先生は死んだ存在として軽蔑するが、今でも好きだと言う。
3幕の最後で、1幕の冒頭と同じように「私」の長い独白が続き、そこで終わりかと思ったが、暗転の後、邸を追い出された須永が、一緒に連れ出した浮山の遠縁にあたるモモちゃん(金松彩夏)と全裸の姿で高台の上に登場し、そこで須永は、毒をあおって自殺する。
須永によってはじめて「生きる」ことを意識して生き続けることを決意する「私」は、漱石の『こころ』の「先生」と「私」の関係の逆を感じさせた。
そして考えさせられることも多くある。
舟木が語る「狂人」も時代の標準で異なってくるということもその一つだが、善と悪の問題にしても同じようなことが言え、須永が犯した殺人は悪だが、戦争では多くの人を殺すほど英雄になる。
重い内容ですべてを書き尽くすことは出来ないが、劇中で語られる「人間は原子爆弾を発明しちゃったんです―神さまだけしか知ってはならないものを、人間は知ってしまったんです・・・」という言葉が重くのしかかってくる。

 

022 10日(日)13時30分開演、こまつ座 第119回公演 『円生と志ん生』

作/井上ひさし、演出/鵜山仁、美術/石山強司、音楽/宇野誠一郎
出演/大森博史、ラサール石井、前田亜季、太田緑ロランス、池谷のぶえ、大空ゆうひ 
ピアノ演奏/朴勝哲
紀伊國屋サザンシアター、チケット:8800円、座席:6列15番

【観劇メモ】
2005年2月(こまつ座第75回公演)の初演を観ているが、観劇日記の記録をたどってみると残念なことにこの年の記録がまったくない。
2007年の再演の観劇記録もないが、この年はほかのこまつ座の観劇記録を含め、観劇記録を几帳面につけているので、ないということは多分見ていないのだろう。
初演では、志ん生を角野卓三、円生を辻萬長が演じ、4人の女優は久世星佳、神野三鈴、宮地雅子、ひらたよーことなっていたが、今回は全員まったくの新メンバーで、志ん生がラサール石井、円生が大森博史で、二人はともにこまつ座初出演で、4人の女優陣のうちでは大空ゆうひも初出演となっている。
前半部は少しだれ気味で観ていたが、後半部、特に炊き出しの慈善事業をしている女子修道院で、ラサール石井の志ん生がキリストと間違えられる場は、抱腹絶倒で、何度も噴き出してしまった。
志ん生と円生についてこの劇を通して感じたのは、志ん生は天性の落語家で天才肌、円生は努力の人という感じであった。
上演時間、途中15分の休憩を挟んで2時間45分。

 

023 29日(金)14時開演、KAAT x パルコ・プロデュース公演 『オーランドー』

原作/ヴァージニア・ウルフ、翻案・脚本/サラ・ルール、
翻訳/小田島恒志・小田島則子、演出/白井晃
美術/松井るみ、音楽/林 正樹、衣装/伊藤佐智子
出演/多部未華子、小芝風花、戸次重幸、池田鉄洋、野間口徹、小日向文世
演奏/林正樹、相川瞳、鈴木広志
KAAT神奈川芸術劇場<ホール>、チケット:(S席)8500円、座席:1階7列6番

【観劇メモ】
観劇予定にまったく入れていなかったが、高校の同期生I君の誘いで、急遽チケットを手配。
シルバー席チケットは既に完売であったが、幸い、S席で比較的前方の席が二つ並びに空いていた。
ヴァージニア・ウルフの作品に『オーランドー』なるものがあったとは全く知らなかったので、アマゾンで原書を取り寄せ予備知識的に読んでみたが、あまり面白いとは思えなかったが、映画になった翻案の脚本が面白いのであろう、その映画を観たことがあることからI君が誘ってきたのだった。
実際の舞台を観ての感想は、この舞台を観たことで、皮肉にも原作の面白さの方が浮き上がってきた。
オーランドーを演じる多部未華子の台詞が、舞台のどこにいてもマイクを通した声で下手側から聞こえてくるので、台詞に臨場感がなく平板であった。
小芝風花がロシアの美姫サーシャーを演じ、小日向文世がエリザベス女王、戸次重幸、池田鉄洋、野間口徹の3人はオーランドーの召使いなどを演じ、役柄としてはむしろコロス風で、説明役的で、全体的にも物語が説明的に展開されていく。
時代は、16世紀末のエリザベス朝から21世紀の現在までのオーランドーとして描かれる。
小説では、この作品が書かれた時点の現在、1928年までであったが、映画では上演時までが現在として扱われ、舞台ではこの公演の現在時までで、21世紀を表象して、オーランドーはタブレットを手にしている。
最後の場面は、そのオーランドーが、海辺を映し出したホリゾンとの前の舞台奥中央部に立ち、エリザベス女王を演じた小日向文世が、上手側の舞台前方にはす向かいに立って対峙して幕となる、象徴的な印象を感じさせる演出であった。
舞台背景としては、最初と最後の海辺の風景と、オーランドーが詩人たらんと欲して書く、詩句の中の樫の木がホリゾンとに大きく映し出されるのが印象的であった。
舞台上の生演奏の方がむしろ楽しめた。
上演時間は、途中20分間の休憩を入れて、2時間15分。

映画版の『オーランドー』
1992年、サリー・ポッター監督・脚本、オーランドー役はティルダ・クリスプ

 

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