作/宮本研、演出/木村光一、装置/石井強司
出演/純名りさ(伊藤野枝)、かとうかず子(平塚らいてう)、加藤忍(神近市子)、佐古真弓(尾竹紅吉)、旺なつき(松井須磨子)、上杉祥三(大杉栄)、仲恭司(島村抱月)、中村彰男(辻潤)、若松泰弘(荒畑寒村)、田中正彦(甘粕憲兵大尉)、
紀伊国屋ホール |
【ストーリーと感想】
終演後の地人会友の会交流会での演出家木村光一の話。
『ブルーストッキングの女たち』は『美しきものの伝説』の女性版、そして後者が少し喜劇調になりすぎた点をシリアスにした作品。しかしながらこの作品も一生懸命生きていこうとしているが、そこで多少ずれている点において喜劇であるという。この木村光一の説明を聞いていて、チェーホフが自分の作品は喜劇であるといっている意味合いがよく分かった。チェーホフの登場人物たちも一生懸命生きようとしていてどこかずれているのだ。
観客の意見として、この劇の終わりがあまりにも暗い、もう少し明るく終わらせたらというのが出された。
その意見に対して、木村光一は観客としては劇を見に来てそこでエクスタシー(と木村光一は言ったのだが、これはむしろカタルシスと言ったほうが適切なような気がする)を求めていると思うが、この劇の最後で大杉栄の長女魔子に大杉のパリからの手紙を読ませたことでその辺のところを工夫したつもりであると回答された。この劇が、大杉栄と伊藤野枝が甘粕大尉に惨殺される場面(直接その場面は出ないが)で終わるため、何か後味が非常に暗く重い気持になるのは確かである。そのためもあってか、木村光一も指摘しているように、劇が終わっても拍手がためらわれているようにまばらである。
反対意見として、前半の女性たちの明るいたくましい生き方の後、このような場面があるのがこれからの日本の社会を予兆するかのような印象でもあるというような意見が、年配の女性から出された。
題名のブルーストッキングは平塚らいてうの「青鞜」を横文字化したものであるが、その「青鞜」を中心にかかわった人物たちのそれぞれの生き様がこのドラマでは描かれている。登場する誰もが主役とも言えるが、軸となる中心人物は『美しきものの伝説』と同じく伊藤野枝。彼女は東京の女学校を卒業して九州に戻ってすぐに地元の有力者の息子と結納が交わされたのを嫌って、「青鞜」の平塚らいてうを頼って上京し、女学校時代の英語の教師辻の元にころがりこみ同棲する。その果敢の行動力が大杉と結ばれることにもなってくる。
劇中劇で松井須磨子の演じるイプセンの『人形の家』で、ノラがあてもないのに家を出て行く。この場面について、島村抱月や松井須磨子を招いての交流会で、らいてうや野枝の意見が交わされるが、野枝の生き方がそのままノラと一緒になって重なってくる。女性の自立ということについても多様に考えさせられる場面でもある。
松井須磨子を演じた旺なつきの演技が凄かった。島村抱月の二ヵ月後の命日を控えたとき、松井須磨子はかつての青鞜のメンバーが集まったところに招待されてくるが、挨拶もそこそこに「時間がありませんので」と言うときの表情の迫真力に思わず息を呑んでしまった。
大杉栄を演じた上杉祥三が、実在した人物、それもそれほど昔でない人物を演じるのに、そこに見えはしないが何か感じるものが存在するということを言っていた。そして写真を見ると大杉栄と自分が四白眼で顔がよく似ているといっていたが、プログラムに載っている大杉栄の写真を見るとなるほどよく似ている。
劇中人物が実在の人物というだけでなく、神近市子や荒畑寒村など、1980年代まで生きていたという身近な存在であるだけに生々しいものがある。
ブルーストッキングに表象されるように、このドラマは女性たちのしたたかな生き様を生き生きと見せてくれるが、一方では『美しきものの伝説』でもそうであったが、伊藤野枝を愛した辻潤の生き様に、作者宮本研の共感を感じとることが出来るような気がする。
宮本研という劇作家の骨太で確かな構成力に圧倒された。
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