2025年髙木登観劇日記
 
   シープドッグ・シアター公演、日英語劇 『ロミオとジュリエット』   No. 2025-013

 事前情報としては、日英語による明治時代の横浜を舞台にしての劇であることだけであった。
 日英語混合によるシェイクスピア劇は、瀬沼達也氏が主宰するSAYNK(シェイクスピアを愛するゆかいな仲間たちの会)でおなじみであるので特に違和感もなかったが、英語劇の劇団シープドッグ・シアターが公演するということに関心があった。といっても、シープドッグ・シアターについては昨年『ハムレット』を観たのが初めてで劇団についての知識もないので、これが初めての試みであるのかどうかは知らない。
 舞台には下手に朱塗りの大きな太鼓橋が観客席手前から舞台奥に向ってせり上がってかかっており、その奥の橋下はライブ演奏者の場となっている。
 開演とともに繰り広げられるのは、黒衣姿のダンサーたちが登場しての激しいパーフォーマンスでの踊りで、最初は3人のダンサーたち、その後入れ替わるようにして4人のダンサーたちが引き続いて踊り、それがやがて7人のダンサーによる乱舞となってキャピュレット家とモンタギュー家の者たちの争いの場として演じられ、公爵ならぬ「知事」の登場で争いが鎮められる。
 そして舞台奥の二階席の暗闇に般若の面をかぶったコーラスが登場し、座った姿勢でプロローグの台詞を日英語を織り交ぜて朗誦する。
 始まりは日本の華族キャピュレット家の邸内の場となって、和装のキャピュレットに洋装のパリスがジュリエットに求婚する場となり、キャピュレット家側は日本語の台詞が主体となる。
 一方のモンタギュー家は西洋人の家族で、台詞は英語である。
 両家の言葉の違いもあって登場人物も、キャピュレット家側ではキャピュレットを演じる渡辺聡をはじめとし、ジュリエットの助廣花志子、乳母の松熊つる松、キャピュレット夫人のひがし由貴、ティボルトの嘉戸耕太郎、召使役の楠真里、それにパリス役の賀久泰嗣らは日本人で通常は日本語での会話、一方のモンタギュー家側は、モンタギューがサイモンズ・リチャード(彼はローレンス神父も演じロミオはエンゾ・トマス、ベンヴォーリオがウィルソン・ダニエル・ヤホラ、マーキューシオがユリエ・コリンズ(女優で、劇中でもマーキューシオは女性として演じる)で、彼らは英語での会話で、まさに日英語混合である。ついでながら、知事役の井上一馬とコーラスの佐々木雅成は日本人俳優。
 演出家の言葉を借りれば、この舞台の設定の意図は、東洋と西洋、新旧の価値観が交錯する中で、異邦人のロミオと日本の少女ジュリエット(彼女の年齢は16歳に設定されている)が、家同士の争いだけでなく、文化や伝統の違いによって二人の恋が禁じられ、さらには時代そのものが二人の愛を阻んでいることを表象している。
 場面変化における装置の出し入れの時間による中断によって劇の展開が緩慢に感じられることがあって、時にもどかしさを覚えることもあった。そんなこともあってか、休憩時間後の2幕目では途中、ときどき虚ろな状態で眠ってしまって、話の筋が分かっているだけに、「あの場面はあったのかしら」と思うことがしばしばあった。
 時代設定もあってか、ロミオはピストルで自殺し、ジュリエットはピストルの弾がなくなっているために、自分の頭の髪に刺していた簪で胸をついて死ぬ。
 二人の死によって両家の和解と、コーラスのエピローグで以て終わる。
 英語劇の劇団ということもあってか、外国人の観客が多く、自分の席の両隣も外国人ばかりで、英語で会話をしていた。彼らは劇に対する反応が敏感で、台詞の面白い場面では声をあげて笑っていて、日本語も解するのか、日本語の台詞に対しても反応を示していた。そして何よりも強い反応を示していたのは、終演後のカーテンコールで、体全体で「ブラボー」と声援を送っていたのが印象的であった。
 僕個人としては、英語の台詞と日本語での台詞を聴くという、ことばを聞くことを楽しむことができたのと、コーラスが般若の面をかぶった和装姿であったことが印象として強く残った。
 座席は最前列中央で舞台を見上げる形であったので、多少首が疲れた。
 上演時間は、途中休憩20分を入れて、3時間。


演出(監督)/マイケル・ウォーカー、助監督/ミシェル・ムニアイ
ライブ演奏/丸田美紀(琴)、久保順(フルート)
3月14日(土)18時30分開演、新宿・シアターサンモール、
チケット:5280円、座席:A列10番


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