≪常に新しい方法により、習慣の中に冬眠する人間の魂を意識の世界へ呼び戻すことが詩人の尊い努力である≫(西脇順三郎詩論集『超現実主義論』の一節より)
丹下一の『ハムレッツ』を観てなぜか西脇順三郎詩論集を読み返したくなった。
3・11の東日本大震災から9年、来年は10年になるということで国による公式行事も最後となると言っていたが、それよりいち早く、新型コロナウィルス感染問題で各地における行事も取りやめとなってしまった。
毎年この3・11の日を挟んでの『ハムレッツ』公演でも開演に先立って午後2時46分に出演者と観客全員が黙祷を捧げていたが、今年はそれも中止された。
2015年、新宿タイニィアリスから始まったこの『Hamletsハムレッツ』は今回で8本目を迎える。
なのにver.7というのは、最初はver.0から始まったから。
その初演から観てきた昨年の公演の感想に、ハムレットを演じる「進化(深化)」ということを書いているが、冒頭の西脇順三郎の詩論の引用は、丹下一の『ハムレッツ』にそのことを強烈に感じたからに他ならない。
初演を含めて自分は今回が4度目の観劇となるが、その都度一つとして同じことの繰り返しはなく、常に「新しい方法」により僕の「魂を意識の世界へと呼び」戻してくれる。
今回は昨年と同じ場所ではあるが前回と異なり1階のスタジオから地下のスタジオに移しての上演で、5メートル四方ほどの広さで客席も30席足らずの会場で、上演にあたってはあたかも「実験室」かのようであった。
上手側はスライド式の引き戸のある一面ガラス張りで外の景色が見渡せ、周囲の壁面は一面淡い白色、舞台後方、いわゆるホリゾンとには下手側に開き戸があり、すぐ右横上方に40cm四方ののぞき窓がある。
舞台上手奥には、卓上ランプをのせた小さな机と椅子。
丹下一の『ハムレッツ』は、演劇というより西脇順三郎の唱える詩論をそのまま感じさせるポエジーだといえる。
始まりと終わりがあるが、この劇は始まりがあってなきがごとく、終わりがあってなきがごとくである。
はじまりは、茅野利安が演劇界に足を踏み入れたきっかけ、彼が高校生の時代に観劇した井村昂の出演したテント劇の話題から、茅野と井村によるマエセツ的な会話から始まる。
続いて二人の若い女性が拭き掃除をしながら登場し、同じくマエセツ的な会話が繰り広げられ、掃除の途中で上手側のガラス戸を開けて換気をするが、これは上演中でも演出として行われ、演出効果とともに狭い空間での感染予防を配慮した実利的効果を兼ねている。
話が飛ぶが、この劇ではいつも吉田優子の歌集からの短歌が挿入されるが、若い女性が雑巾を絞って拭き掃除をするその場面も
<雑巾の端と端とをねじり上げ締めあげてやい、白状さらせ>
を表出しているかのように感じられた。
実は、これは後付けの感想である。
これまで吉田優子についてまったく知らないままに過ごしてきたが、今回、この劇の最後に繰り返される短歌
<カラメルをとろり煮る午後猫が鳴く昨日はどこにもありません>
が気になって、初めてこの吉田優子について調べて知ったことである。
この二人の若い女性(橋本樹里と平栗萌香)が、マエセツ的な会話から墓堀り人のオフィーリアの水死についての自殺か否かの問答へと移り、そこへ上田獏が登場し床面に目を見開いたまま倒れ伏す。
その彼女のまわりを二人の女性が何周も何周もぐるぐると回り続ける。
今回の舞台では、前回と異なりこの3人の女性を中心にして舞台が展開していく。
舞台奥の机には茅野利安がずっと本を読んでいて、ハムレットの第一独白を語り、そのほかにはおもにレアティーズ役を演じ、井村昂は今回台詞はなく身体表現のみで、丹下一の登場もほとんどなく、「雀一話落ちるにも神の摂理がある」というハムレットの台詞を最後のほうで語るだけである。
いつものようにバケツが使われるが、今回はハムレットではなくオフィーリアがそれをかぶって登場する。
『ハムレット』の場面としては、墓堀の場とオフィーリア埋葬の場、橋本樹里と平栗萌香によるハムレットとオフィーリアの尼寺の場、茅野利安が演じるレアティーズがオフィーリア水死を嘆く場などの台詞が断片的に語られるほかは上田獏の身体表現が核となっている。
実験室的な会場の特徴を生かした演出は、出演者が会場の外に出て、ガラス戸越しに演技を見せることや、のぞき窓を使ってホリゾントの背後の様子を垣間見せることなどにも見られた。
上演を通して常に演奏されるピアノの音楽の効果と、ヒグマ春夫の映像が劇の緊張感を高めるだけでなく、ポエジーとしての効果を盛り上げている。
映像では、例ののぞき窓の内側の見えない状態を可視化させて表出したり、被災地の風景を感じさせる道路に車が走っている光景や、出演者のそれぞれの顔をアップにして映し出して溶融させたり、水の拡散をイメージするかのような抽象的な映像の増殖作用を頻繁に用いている。
この水の増殖作用のような映像は津波の変容にも解される。
震災の直接的表現は、表現者上田獏が若い女性に手渡す手紙によってなされ、その女性は故郷の友人との連絡が取れずテレビをつけるが、その映像が現実のものとは感じられない。被災地に行きたいと思うが女性は行けないということに落胆する。
台詞の断片、ピアノの音、映像、身体表現が混然一体となって緊張感のあるポエジーを構成している。
80分間の上演時間が、始まりがあるようでなく、終わりがあるようでないまま幕となるが、最後に繰り返される
<カラメルをとろり煮る午後猫が鳴く昨日はどこにもありません>
が、強烈な印象として焼き付けられる。
来年もやります、とい丹下一の最後の言葉に彼の強い意志と決意を感じ、劇を見終わってもその混沌、カオスに溺れてしまって言葉もない状態で放心状態となって会場をあとにした。
構成演出/丹下 一、映像/ヒグマ春夫、音楽/柴野さつき・尾島由郎、照明・早川誠志
3月10日(火)15時開演、成城学園前・アトリエ第Q藝術
チケット:3000円、自由席
【追 記】
この機会に調べた歌人吉田優子について(ウィキペディアから)。
2000年11月に26歳の若さで夭折。
歌集に『ヨコハマ・横浜』(2002年、なからみ書房)
この観劇日記に記した短歌以外に紹介されていたのは
排水路カルマン鍋を探してはわが混沌に泣きじゃくる鬱
「APPLE」が世界の辞書より消されれば二人の罪は赦されるのか
蟹の這う横浜銀行。かべにぬる蘇州や曲という塗り薬
或る晴れた日に外人が「ヨコハマ」という領域に骨うめました
前衛的というより、先鋭的な歌人という印象を持った。
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