〜テーマから迫るシェイクスピア劇の実験〜
アカデミック・シェイクスピア・カンパニー(ASC)のシェイクスピア劇は、テーマを設定した上での実験劇としての挑戦である、といえよう。
第3回公演の『リア王』以来、『夏の夜の夢』、『から騒ぎ』、『マクベス』と観てきたが、その都度テーマを掲げて、果敢にシェイクスピア劇に挑戦しているのがよく見て取れる。
その土台作りは、「ONLY ONEシェイクスピア37」のチャレンジ公演であろう。一人芝居でストレートプレイとしてのシェイクスピアの台詞をしっかりと身につけて、斬新なシェイクスピアの挑戦を続けている。
今回の『リチャード三世』のテーマは、<母性愛の欠如から生じた悲劇>で、演出とタイトル・ロールを演じる綾乃木嵩之の公式に従えば、
母性愛 X 幼少の心 = 良心の完全欠如
幼年時における母性からの拒絶 = 全宇宙からの全否定
良心の完全欠如 X 全宇宙からの全否定 = 究極の悪
究極の悪 ÷ 母性 = リチャードの悲劇
ということになる(チラシのキャッチコピーから)。
確かに、リチャードは母親から祝福されることはない。それはリチャードの次の台詞からも明らかである。
「そしてりっぱに天寿をまっとうしますよう!
というのが母親の祝福の結びの文句のはずだ。
驚いたな、そいつをはぶいてしまったとは」 (第2幕第2場)
また、幼年時における母性からの拒絶としては、ヨーク公爵夫人の台詞、
「ああ、おあまえのじゃまをしてやれたはずの女だ、
この呪われた胎
のなかにいるあいだに絞め殺しておけば」 (第4幕第4場)
にあからさまに表れている。
シェイクスピアが描くリチャードの悲劇は、母性愛欠如のコンプレックスが招くものとしての個人的レベルへの卑小化、単純化するにはスケールが大きすぎる。
そこをわきまえて綾乃木は、<全宇宙からの全否定>という広大なイメージを想像=創造する。
その広大無辺の悲劇を、閉じられた狭い空間(銀座みゆき劇場)に舞台化の実験をする。
狭い舞台ながら、総勢20人の出演であるが、それでも足りぬと、一人二役、三役、四役もある。
たとえば、菊地一浩は、クラレンス公ジョージ、エドワード四世、ヨーク公爵夫人、リッチモンド伯をこなし、鈴木麻矢は、王妃エリザベス、ケイツビー、暗殺者2,娘エリザベスの四役を演じる。
わけても菊地一浩の台詞と演技は秀逸である。特に、ヨーク公爵夫人は今回の上演ではテーマのキー・パーソンともいうべき存在であるが、その重責を全うする演技力と言える。
リチャードの悲劇のテーマ性を表象するのが、終幕でのヨーク公爵夫人がリチャードを胸に抱いて慈しむ姿であろう。
お前の悲劇を招いたのは、わたしの愛の欠如ゆえ、とでもいうように無言でひしと抱きしめる。
このテーマ性に気づかされるのは、この最後の抱擁の場面である。
シェイクスピアをテーマに縛られて観るのは愚の骨頂であろうが、このように最後に見事に表出するのは、前回の『マクベス』に続く演出法である。
休憩なしで2時間の上演時間が、長くもなく、短くもなく、よくまとまっていた。
訳/小田島雄志、演出/綾乃木嵩之
11月24日(金)19時開演、銀座みゆき館劇場、チケット:3500円、座席:E列4番
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