Birnamコラム2

"バーガンディー"は、やって来るのか

「朝おきてコーヒーを飲みながら新聞が読める、それが平和だ」。僕の好きな映画、「ラインの仮橋」の中の台詞だ。舞台となるフランスでは、シャルル・アズナブール演じるパン屋の主人も新聞編集長もドイツ国境戦線に駆り出され、ナチス・ドイツと戦う。やがてドイツ軍は撃退されパリも解放されるのだが、これはその翌朝の編集長の言葉だ。連日のニュ―スを聞いて大規模な戦争を予感するたびに僕の頭には、この言葉がちらつく。

「ヘンリー五世」では、アジンコートにおける激戦の直後の和平交渉で、優秀な交渉人バーガンディーは、こう問いかける。「そもそもいかなる障害、いかなる不都合があって、諸芸の乳母であり豊饒と生誕の嬉しい母である「平和」が、あわれにも裸にされ傷だらけにされ、世界最高の庭園であるわが肥沃なるフランスにそのうるわしい顔をみせなくなったのでしょうか?(小田島雄志訳)」。大規模テロに報復するというアメリカが、このまま戦争に突入する前に、なんとか交渉によって解決する道はないのだろうか。

コーヒーを飲みながら、新聞を読むあたりまえの朝。けれども、ひとたび「平和」を失った人間には、それこそ至福の時なのだ。「平凡でつまらない」と投げやりに退屈する前に、今朝コーヒーを飲みながら新聞を読めた幸せをかみ締めたい。21世紀の"バーガンディー"の登場を待ちながら

01/10/02

 

"収穫の秋"が僕たちに教えてくれること

僕は食べることが大好きだ。そんな僕にとって、秋はまさに待ちに待った季節。秋刀魚、栗、梨、葡萄などを思う存分堪能できる素晴らしい季節だ。けれど、今年はテレビでも新聞でも「同時多発テロ」の報道が続き、気が重い。ましてアメリカが同盟国の支援を得て報復のために戦争を準備しているなどと聞くと、さすがに"収穫"を楽しむ気持ちにはなれない。

シェイクスピア劇で"収穫"を祝う場面といえば、「テンペスト」の4幕1場を思い出す。結婚の女神ジュノーと豊穰(穀物)の女神シーリーズが、ファーディナンドとミランダの結婚を祝福する。ジュノーが歌いながら若い2人の名誉、富、幸せを祈ると、シーリーズも美しい声で続く。

「大地の実り、豊穰に、納屋に穀物満ちあふれ、葡萄はたわわに房をなし、木の実は重く枝に垂れ、とり入れの秋過ぎ去れば、すぐあとを追い、春きたれ!」(小田島雄志訳)

自然の恵みが人間に与えてくれる悦びは、いつの時代も変らない。でも悲しみがあまりにも深いと、僕たちはそれを見つけることが難しくなる。それでも自然は今年もちゃんと秋の実りという名の"力"を与えてくれている。秋晴れの空の下、豊かな"収穫物"がずらりと並ぶ近所の八百屋の店先で、僕は失いかけていた元気をしっかりと取り戻した。

 

 

民主主義社会に"リチャード三世"は君臨できない

全世界を震撼させた同時多発テロ事件がニューヨークで起きてしまった。あの衝撃的なニュース映像はしばらく僕たちの脳裏から離れることはないだろう。ブッシュ大統領はこのテロを"戦争"と受けとめ、首謀容疑者が潜伏していると思われるアフガニスタンに対し大規模な臨戦体制に入っている。アメリカ政府がテロの首謀者と名指ししているのはオサマ・ビンラーディンだが、彼とオウム真理教の教祖がダブって見えてくるのは、おそらく僕だけではないだろう。共に"原理主義"をふりかざし、異常なまでのカリスマ性を持つ。ひげを生やした風貌まで似ている。

シェイクスピア劇に出てくるテロリストのような人物と言えば"悪魔の手先"と恐れられたリチャード三世だろう。自分が王位に着くために、暗殺や処刑によって何人もの肉親や側近を死に追いやる。実の兄を罠にはめて死なせ、殺した敵の妻を夫の棺を運んでいる途中で口説く。王子たちを惨殺し、部下をゴミのように捨てる。その彼が言う。「おれは笑いながら、人を殺すこともできる」(「ヘンリー六世・第三部」)。しかしリチャード三世の最期は、戦闘のなかで孤立し敗走して殺されるという悲惨なものだった。中世の世界でも"悪魔の手先"は君臨し続けることはできなかった。まして民主主義の現代に"リチャード三世"が猛威を振るい続けられるはずはない。


 

"エドガー"を眠らせるな

太平洋を1ケ月間漂流した漁師・武智さんが救出された。奇跡の生還を成し遂げた彼が記者会見で淡々と発した一言一言は、僕にとってまさに"詩"だった。中でも「人間なかなか死なないものだと思った」という実感には、迫力さえ感じた。数年前に地球一周の船旅をした時、僕も2度ほど本気で遭難を心配したことがある。16,000トンの客船でさえ大波にもてあそばれるとあんなにも、もろくなる。まして武智さんは全くの孤独だったのだから、その「恐怖」は計りしれない。

漂流とは違うが"生命力"や"たくましさ"を象徴する人物として「リア王」のエドガーを忘れることは出来ない。リア王に仕えるグロスター伯爵の息子でありながら、妾の子のエドマンドの策略によって追放され、リア王のように荒野をさまよう。ボロをまとって乞食に身を隠し、それでも貪欲に生き続けるエドガーは言う。「人間、運に見放されてどん底の境遇まで落ちれば、あとは浮かびあがる希望のみあって不安はない」。

武智さんのニュースを聞いて嬉しく思ったのは、なによりも彼の生命が救われたことに安堵したからだった。けれどそれと同じくらい僕が安心したのは、本来 "動物"である人間に備わっているはずの、にもかかわらずすっかり忘れてしまっていた自分の中の "エドガー"を、"彼の生還"に見たからかもしれない。

01/09/11

 

好機を逃すな!

酷暑だった夏が、まもなく終わる。僕は少年時代を農村で過ごしたためか、夏と言えば干し草の香りを思い出す。そう言えば、英語の諺に "Make hay while the sun shines."というのがある。「日の照るうちに干し草を作れ」、つまり「好機を逃すな」という意味だ。同じような意味で、「いま太陽は強い日差しを放っているが、ぐずぐずしていると冷たく肌を刺す冬の風が干し草を台無しにするだろう」という台詞が「ヘンリー6世・第3部」にもある。

僕たち[雑司が谷シェイクスピアの森]の恒例のイベント夏期一泊交流セミナーが先日、無事に終了した。今回のテーマは「ハムレット」の読み直し。河合祥一郎氏の「謎解き『ハムレット』」(三陸書房)の視点を軸に、さまざまな角度から活発に議論を交わした。ロンドン在住メンバーの鈴木真理さんも娘の希実さんとともに夏休みの一時帰国で参加して下さったおかげで、本場イギリスにおけるシェイクスピアの貴重な話も堪能できた。僕にとって今回のセミナーは、メンバー全員とシェイクスピアへの理解を深める「好機」となった。

さて今年の夏、あなたにはどんな「好機」が訪れただろう?どんなものでもいい。もし「好機」があったと思えるなら、それを決して逃がさないことだ。そう、ちょうど子供の頃、探し求めたクワガタを虫とりネットで捕まえた、あの瞬間のようにね。

 

"夏の日"にたとえて言うなら、君は…。

僕にとって"夏"と言えば、ビール、かき氷、ヒマワリだ。ヒマワリは英語でsun-flowerだが、古くはheliotropeと呼ばれていた。語源はギリシャ語で「太陽(helios)+向く(trope)」。その名の通り、日の出から日没までひたすら太陽を追い求める情熱的な花である。なるほど、日本語でも「向日葵」と言う。時代や洋の東西を問わず、人間から見たヒマワリはエネルギーを貪欲に求めるものの象徴だった。

しかし、このヒマワリ、なぜかシェイクスピア時代にはあまりポピュラーではなかったようで、イギリスにおいて詩などに登場するのは18世紀以降。というわけでヒマワリは、残念ながらシェイクスピア劇にはでてこない。その代わりと言ってはなんだけれど"溌剌としたエネルギー"の象徴としてシェイクスピア劇に登場するのは、「夏草(summer grass)」だ。「夏草は、夜のあいだに急速に成長する」という台詞が「ヘンリー五世」にもある。

シェイクスピアの「ソネット18番」は、「君を夏の日にたとえようか」で始まっている。われらが詩人にとっては恋人こそがなによりも"夏の花"だったのだろう。「ソネット18番」の一行一行を久しぶりに読み返していたら、何十年も前に妻と過ごした夏の思い出が、少しだけ頭をよぎった。

 

 

この猛暑は"Tempest"か?

それにしても、今年は猛暑だ。僕は数年前に地球一周の船旅で、スリランカ、セネガル、ブラジル、キューバ等々のいわゆる南国を訪れたが、どこの国も湿度が低いせいか東京よりはまだしのぎやすかったように思う。そう言えばついこの間まで僕は日本を温帯国だと思い込んでいたが、実は気象的には立派な熱帯国なのだそうだ。しかし、それにしてもやはり暑いというのが、今夏の実感だ。

ところでシェイクスピアは「テンペスト(あらし)」の中で、地球そのものが大気に溶け去るという予言めいた台詞を残している。「雲に接する摩天楼も、豪奢を誇る宮殿も荘厳きわまりない大寺院も巨大な地球そのものも、そう、この地上に在るいっさいのものは結局は溶け去って、いま消え失せた幻影と同様に、あとには一片の浮雲も残しはしない!」。「テンペスト」がシェイクスピア最後の作品であるだけに、僕にはこのプロスペローの台詞は環境破壊までも予見したシェイクスピアからの「警告」に聞こえてならない。人間に普遍的に潜む愚かさを知っていたシェイクスピアは、400年前の人間社会の姿に21世紀の僕たちを見たのかも知れない。そしてこの猛暑も単なる自然現象などではなく、人間たちの「おごり」に怒った神が巻き起こしている「嵐」ではないのか。

 

 

シェイクスピアは暑気払いに、何を飲んだのだろうか?

ここ数日はいくぶん過ごしやすいとはいえ、今年は"猛暑"が日本列島を襲っている。東京でもすでに38℃を記録したし、地域によっては40℃を越えたところもあるようで、人間の体温を越えるこの気温には、さすがの僕も少しバテ気味だ。けれど一方で元気ハツラツなのが「ビール業界」。古くはメソポタミアやエジプトなど、ゲルマンや北欧民族に広く造られていたビールにはその語源も諸説あるが、一般的にはラテン語のbibere(飲む)から来ていると言われている。それではイギリスではどうかというと、どうも僕たちにとってのビールは、彼らにとってはエールという飲み物らしい。味はビールに近く、スッキリとした喉ごしだ。このエールは昔も今もイギリス人に愛され、シェイクスピア劇でもビールより頻繁に登場する。「じゃじゃ馬ならし」の幕開けでは、酔ったスライが何度もエールを飲みたがるし、「ヴェローナの二紳士」では道化のラ−ンスが「エールハウス(=居酒屋)に行こう!」とおちゃらける。

さて、残念ながら僕の近所ではエールは味わえないけれど、せめてお気に入りのビアホールに出掛けて、この暑さを一気に吹き飛ばすとしよう。何枚かの千円札と、「いい酒はいい守り神ですよ、上手くあつかえばね」というイアーゴの台詞を、ポケットに入れて。

 

 

田中眞紀子外相は、キャタリーナ?

小泉内閣外務大臣の田中眞紀子さんは就任当初、外務省を"伏魔殿"だと批判した。そんな勇ましい彼女のニュースを聞くたびに、僕はいつもシェイクスピアの喜劇「じゃじゃ馬馴らし」のキャタリーナを思い出していた。生まれつき乱暴で気の強いキャタリーナは、求婚するペトルーチオが「次の日曜に式を挙げよう」と言うと、「式を挙げる前にあなたを絞首台に送ってやる」と毒づく。父親譲りの強気さで外務省の役人に先制攻撃をかけた田中外相に、ぜひ演じてもらいたい役どころだった。

しかしそんな外相も、最近はなぜかめっきりトーン・ダウンしてしまった。さながら政界の"じゃじゃ馬"である彼女にも、かなりの"調教"がされているのか、国会審議や公式発言でも外務官僚の作文を読みあげることが多くなっている。キャタリーナを「月だ、太陽だ」と賛美するペトルーチオに、「では神様にかけて、ありがたい太陽です。でもあなたが違うと言えば太陽ではありません」とまで従順な女性に変貌してしまうキャタリーナ。僕も絞首台に送られるよりは従順な女性の方がまだいいけれど、恋愛という不思議な魔法が働いてもいないのにしとやかな女性に変貌してしまうのは、いかがなものか。変化は必ずしも"弱さ"を意味しないけれど、僕が観たいのはやっぱり"じゃじゃ馬"であり続ける眞紀子さんかな。

 

 

ジャック・レモンは天国から・・・

「お熱いのがお好き」や「アパートの鍵貸します」などの映画で親しまれたアメリカの俳優ジャック・レモンが他界した。その告別の記事をいくつか読んで、残念に思ったことがある。ジャック・レモンがケネス・ブラナー脚色・監督・主演の映画「ハムレット」(1996年)に出演していたことに誰も触れていないのだ。確かに彼は、初期の作品で"コメディアン"という印象があまりも強かったためシェイクスピアとは無縁にも思える。しかし「酒とバラの日々」(62年)や「晩秋」(89年)ではシリアスな演技を見せた。ブラナーはそんな彼の才能に着目し、マーセラスとして起用した。僕も「ハムレット」を観たが、言われなければジャック・レモンだと分からないほどだった。むしろ円熟した俳優としての風格が演技にでていて、驚かされた。

「何かが腐っているのだ、このデンマークでは」マーセラスの重要な台詞だ。"小泉旋風"が日本の何かを変えてくれるようで、現実には何も変わらないもどかしさ。参院選の宣伝カーが日本全国を走り回っている今の季節、漠然とした憤りをもてあましているのは僕だけだろうか。さてジャック・レモンは天国から、こんな日本をどう見ているだろう。やはりつぶやいているのだろうか。「なにかが腐っている・・・」と。
「シェイクスピアは一塊の石炭である」。そして・・・。

 

 

ピーター・ブルックの The Tragedy of Hamlet /「ハムレットの悲劇」を観た

そしてその感動が、日を追うごとに僕の中で高まっている。ブルックの脚色は予想以上のものだった。最も驚かされたのは、3幕1場の冒頭にある "To be, or not to be ..." で始まるハムレットのあの有名な独白を4幕4場に「移植」したことである。彼のような巨匠(マエストロ)だからこそ可能だった「大胆さ」と言える。駆け出しの演出家が同じことをしたら、きっと守旧派のシェイクスピア学者たちの総攻撃にさらされたに違いない。

「後世に語り継がれる『ハムレット』のステージとして、ベルイマンとともに双璧をなすものでしょう」と劇場のアンケート用紙には短く書いたが、これは見終わった瞬間の実感だった。僕は、このステージを逃すと禍根を末代まで残すことになると思った。このようなすばらしい作品に出遭うと、あらためてシェイクスピア作品の奥深さと、その世界の中にいられる時間に幸せを感じる。

「シェイクスピアは一塊の石炭である」とはブルックの言葉。「石炭は燃え上がり、あるべき姿になる。その時こそ石炭は本来の力を生きなおす」のだという。「ハムレット」は「巨匠」の手によって、燃えあがり、あるべき姿になったのだ。

 

 

織姫とジュリエット、どっちが幸せ?

今年もまた"七夕"がやってくる。僕はこの季節になるといつも『ロミオとジュリエット』の悲劇を思い出さずにはいられない。シェイクスピアは、イタリアに伝わる悲劇的な物語集から題材をとって『ロミオとジュリエット』を描いた。彼が冒頭に用いた"star−crossed"つまり「星回りの悪い、薄幸な」という表現も、まさに"天の川"と重なる。

舞踏会での出逢い。疾走する恋。バルコニー・シーンでの二人の語らいは、あまりにも有名である。「どうしてあなたはロミオなの?」、「バラと呼んでいる花を、別の名前にしてみても、美しい香りはそのまま」などの名セリフを生んだ『ロミジュリ』は、やはり人気が高く、今も世界各地で繰り返し上演されている。

織姫は彦星と1年に1度しか逢えないけれど、死んではいない。けれどジュリエットはもう永遠にロミオとは逢えない。そう思うと織姫の方が幸せのようにも思えるけれど、これだけ多くの観客に愛され、思い出されることを考えれば、僕はジュリエットの方が幸せなのではないかと思う。

「100万人の人に愛されたって、本当に大切な人と逢えないなら、幸せなんかじゃないんじゃない?」。仙台に住んでいる娘からは、そう言われたけれどね

 

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