サムエル・ピープスの観劇記 第6章

 

 1665年は疫病が流行し、そのせいもあって観劇回数はわずか6回である。
 疫病の流行についてピープスの日記から拾ってみる。
 3月30日、この日は「主の日」で、シティにも疫病の恐れが出てきて、すでに2、3軒の家が閉鎖される。
 6月7日、ドルリーレーンで、2,3軒の家の戸口に赤い十字のマークと'Lord have mercy upon us'と書かれている。ピープスは疫病予防のためにロールたばこを、においを嗅いで噛むために買い求める。
 6月14日、町は非常に病んでいて、人々は病気を恐れている。先々週43人亡くなったのに続き、先週は112人が疫病で亡くなる。
 6月29日、死者の数267人。先週より90人以上増加。シティでは4名だが、人々は町からの脱出を図り、女王の母はフランスに逃れる。
 7月18日、死者を埋葬する場所が不足し、露天に埋葬していることを聞く。
 7月20日、疫病はいたるところにはびこり、今週の死者は1089人にのぼる。
 8月12日、死者を埋葬するのに夜だけでなく昼も行うようになった。
 8月31日、シティでは今週7496人の死者、その内6102人が疫病で亡くなった。しかし、実際には死者の数は1万人に近いと思われる。というのは、貧しい人たちは数に含まれていなかったり、イエーカー教徒やその他の人々は死者のための弔いの鐘を鳴らさないためである。
 9月7日、1週間の死者8252人の内、6978人が疫病で亡くなった。
 この年の最後の日、12月1日(主の日)の日記には、1年の総括として、貯蓄が1300ポンドも増えて4400ポンドになる。ピープスは、タンジールの会計主任と食料調達検査官の職務における自分の勤勉さによってもたらされたものと自負している。
 疫病の大流行で憂鬱な年であり、家族もバラバラとなり、妻はウリッジ、自分と自分の事務員はグリニッジに、女中はロンドンに留まって費用がかさんだことを悔やんでいる。しかし、その疫病もやっと収まってきた。
一方、6月に勝利を収めたオランダとの戦いは今や資金不足で形勢悪化となる。
 サンドイッチ伯爵は拿捕した船の戦利品処置で破滅し、スペイン大使となって送り出された。
 ピープスの家族は、伯母のベルと、いとこのサラの子供たちが疫病で亡くなったのを別にすれば、この1年つつがなく過ごせたことを感謝している。
 ペンギン版の『ピープスの日記』では観劇した日は、1回のみ記されている。

(1) 1月14日 'Vulpone'
 妻と一緒に国王の劇場に行き、ベン・ジョンソンの喜劇『ヴォルポーネ、または狐』を観る。これまで観た中で最高の劇で、よく演じられていたと思う。



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