サムエル・ピープス 1661年の観劇記

 

 1661年になるとピープスの観劇回数は急激に増え76回に及び、ペンギン版に収録されている日記には29回の観劇記が登場する。
 1660年の末から61年の始めにかけてピープスは、主要な公務員の一人として海軍省に属する建物の一つに住み、かれこれ半年が経とうとしている。同居人には、妻、女中のジェイン、(1663年から公務員となりピープスの生涯にわたっての友人となる)ウィル・ヒューア、(ジェインの弟)ウェインマンがおり、そこにピープスの妹ポーリーナがやってきて一緒に住むことになろうとしている。
 国家の状況としては、王は落ち着きを取り戻し、誰からも愛されている。
 ヨーク公爵は大法官の娘と縁組したが多くの者に喜ばれていない。
 女王はフランスに戻り、王妃オレンジは最近亡くなってピープスらは喪に服した。
 議会は王に大いなる恩恵を与えたが派閥化し、12月29日に解散され、すぐにも新たな議員が選出されようとしている。

 1月1日の日記には、
 「午前中、弟のトマス、父、二人の息子を連れて叔父のトマス・フェナーが次々とやって来て、彼らに朝食として沢山の牡蠣、牛の舌の料理、アンチョビ料理、あらゆる種類のワイン、ノースダウンのエールをふるまう。11時まで楽しく過ごして帰っていき、午後には妻と一緒に四輪馬車でいとこのトマス・ピープスを訪れる(以下略)」
と記していて、新年の食事の様子などが分かって興味深い。

(1)1月3日、’The Beggars’ Bush’―初めて舞台で女優を観る

「早朝、財務省に行き主人と自分のお金を勘定し970ポンドあることを確認する。ウィルの店で豚の足のローストを食べ、シアターへ行く。『乞食の森』を観る。非常にうまく演じられていた。ここで初めて舞台の上で女優が登場するのを見た」
ピープスはこの劇を1660年11月にも見ているが、その時には女優について何も述べていないのでこの時初めて女優が登場したものと思われる。

[注] 女優=王政復古後、女性役を女優が演じるのは普通となった。イギリスの最初のプロの女優はDavenantのオペラSiege of RhodesのIantheを1656年、Rutland Houseで演じたMrs. Coleman。

(2)1月4日、’The Scornful Lady’

 「昼食後、ムーア氏と二人でシアターに行き、The Scornful Ladyを観る。非常にうまく演じていた。ムーア氏にとってこれが初めて観る劇であった。観劇後、一緒に「ヘラクレスの柱」でエールを一杯飲んで別れた」

[注] The Scornful Lady=フランシス・ボーモントとジョン・フレッチャーの共作による喜劇。1616年に出版される。ピープスは1660年11月27日にも観ており、その時も今回同様タイトルロールは男優が演じている。

(3) 1月7日、'The Silent Woman'

 「今朝のニュースで昨夜、第五王国提唱者の狂信者たちがシティで騒動を起こし、6、7人が殺されたが全員逃亡したという。弟のトムと妻との3人でシアターに行き、The Silent Womanを観る。今回初めて観た劇であったが素晴らしい劇であった。なかでも、(エドワード・)キナストン少年が3様に姿を変えて登場するのが見もの。最初はモロウズ(エゴイストな老いた独身者)を喜ばせるために見劣りがする服を着た貧しい女の姿、次に家の中で最も美しい上流社会の着飾った女性として、最後には家の中で最もハンサムな男性として登場する」
 俳優の具体的な演技についての感想が述べられているのが興味深い。

[注] (Epicene, or)The Silent Woman=『もの言わぬ女』はベン・ジョンソンの喜劇『エピシーン』の副題。エピシーンは、もの言わぬ女の名前。1609年の作。王妃饗宴一座の少年俳優によって1609-10年に演じられ、1616年出版された。

(4) 1月19日、'The Lost Lady'

 「昼食後、シアターに行き『娼婦』(The Lost Lady)を観るがたいして面白くなかった。まずいことに、自分の事務所の事務員が4人、半クラウンのボックス席にいて見られてしまった。自分は1シリング6ペンスの席であった」

[注] The Lost Lady=イングランドの植民地バージニア総督になったサー・ウィリアム・バークレー(1605-77)の1638年の作で、悲喜劇。ピープスは、1月28日にも同じ劇を観に行き、その時は前回より満足している。その日の日記には「暗い席にいる自分の前の夫人が過って自分に向かって唾を吐いたが、彼女の顔を見ると大変美人だったのでちっとも気にならなかった」と書き添えている。

(5) 1月29日、'The Maid in the Mill'

 「ムーア氏とランバート副官とでホワイトフライヤーズに行き、『製粉所の乙女』(The Maid in the Mill)の3幕までを観て大いに満足し、遅かったので二人を残して劇場を後にした」

[注] The Maid in the Mill =ジョン・フレッチャーとウィリアム・ローリー(1585-1626?道化役者兼劇作家)による喜劇。1623年、国王一座によってグローブ座で上演された。王政復古後1661-2年の間に2回上演された。

(6) 2月23、'The Changeling'

 「この日は28歳の誕生日。午前中サー・バッテンとペンとで仕事をした後、食後舟でホワイトフライヤーズの劇場に行って『チェインジリング』を観た。この劇は20年ぶりに上演されたものである」

[注] The Changeling =トマス・ミドルトンとウィリアム・ローリーによる悲劇。1622年、ロンドンのフェニックス劇場で最初に上演された。欲望・殺人・姦淫の暗い話と精神病での喜劇的サブ・プロットで当時人気のある劇であった。

(7) 3月1日、'The Bondman'

 「ホワイトフライヤーズに行き、『奴隷』を観る。素晴らしい劇でよくできていた。とりわけベタートンの奴隷が最高に良かった」
 3月19日にも同じ劇場で観ており、「最高の出来であった。何度も観ているがそのたびにベタートンの演技に感心している」と記している。

[注] The Bondman =フィリップ・マッシンジャー(1583-1640)によって書かれた悲喜劇。The Lady Elizabeth's Menによってコックピット劇場で1623年12月3日に上演され、ホワイトホールの宮廷でも上演された。
ベタートン(Thomas Betterton、1635-1710)=ハムレットやマクベスを演じ、The Haymarket Theatreを設立した(1705)。

(8) 3月14日、'King and no King'

 「ご主人夫妻と食事をし、その後クリード氏とシアターに行きKing and no Kingを観る。よかった。」

[注] King and no King =ボーモントとフレッチャーによる悲喜劇。詳細は不明だが、フレッチャーの作品の中で最も称賛され人気があった。

(9) 3月23日、'All's Lost by Lust'

 「午前中ずっと家で書類整理をし、自宅で食事。それからレッド・ブル座に出かけた。レッド・ブル座には劇場再開まで行っていなかったが、そこで召使いをしていて私のことを知っている船員に案内されて楽屋を見学。そこで衣装合わせなどしていてごった返していた。衣装はお粗末で役者も下品な連中であった。最後にピットに行ったが自分を含めて10名足らず、劇場全部でも100名もいなかった。そこで上演されたAll's Lost by Lustもまずく、大変混乱していた。音楽室では少年が歌を歌っていたが、間違えたので支配人がその少年を殴って大騒動になった」

[注]  All's Lost by Lust =1618-20年にウィリアム・ローリーによって書かれた悲劇。最初、ローリーの劇団によって上演され、チャールズ王子一座、後にレディ・エリザベス一座によって演じられ、当時人気があった。
 レッド・ブル座 = 1604年、ロンドンのクラークンウェルのセント・ジョン・ストリートに建てられたが、劇場としての詳細はあまり分かっていない。1642年に劇場が閉鎖された後も違法に上演を時々続けていた。1666年のロンドンの大火で焼失した。

(10)4月6日、'Loves Quarrell'

 パレス・ヤードにあるレッグ亭でクリード氏(サンドイッチ伯の使用人)とムーア氏(サンドイッチ伯の弁護士)とで昼食後、クリード氏と二人で、ソールズベリー・コート・シアターに船で行って、初めて上演される'Loves Quarrell'を観たが、筋書きも台詞も好きではない。

[注]  Loves Quarrell ついては、作者を含めて詳細の調べが出来ていない。
ソールズベリー・コート・シアター=1629年、俳優でフォーチュン座の支配人のリチャード・ガネルと饗宴長官のサー・ヘンリー・ハーバートの次官ウィリアム・ブラグレイヴによって1000ポンドの費用で建てられ、1630年にオープンした室内劇場。内乱の前に建てられた最後の劇場。内乱で壊されたが、1660年にBeestonによって再建され、1666年のロンドンの大火で焼失するまで上演された。

(11)4月20日、'The Humorsome Lieutenanat'

 コックピットで、国王の前で上演された『滑稽な副官』(The Humorous Lieutenant)を観たが、出来はあまりよくなかったが、作風を観るのは大いなる喜びであった。

[注] コックピット=ドルリー・レインでの最初の劇場。1609年に建てられ、元来はその名の通り、闘鶏場で、舞台の場所が闘鶏に使われていた。1616年にクリストファー・ビーストンが借地契約をして劇場に転用した。1617年の損傷後「フェニックス」と命名された。1642年の劇場閉鎖後は学校の教室とされたが、違法で劇場として使用され続けた。王政復古後は合法化され、ダヴェナント率いる公爵一座や、キリグルー率いる国王一座によって1665年頃まで使用された。
The Humorous Lieutenant =『滑稽な副官』は、フレッチャーの1619年頃の作で、喜劇。

(12)5月25日、'The Silent Woman'

 午前中自宅で仕事をし、午後テンプルに行きプレイフォードの店で1、2冊本を見て、シアター(ギボンズ・テニスコート)に行き、『もの言わぬ女』を観る。面白かった。

(13)8月24日、'Hamlet Prince of Denmarke'

 この日、午前中は事務所で仕事をし、海軍監督官のサー・ウィリアム・バッテンの所に行って、サー・ロバート・ホルムズ船長がギニアから連れてきたという珍しい生き物、ヒヒを見て、シアターで『デンマークの王子ハムレット』を観る。とりわけベタートンの演技が想像以上によかった。

(14)8月27日、'The Jovial Crew'

 妻と二人でシアターに行き、『陽気な仲間』を観る。国王と(弟の)公爵とその夫人、それにマダム・パーマー(王の愛人でキャスルメイン公爵夫人)も来られていた。妻も満足して観た。全く愉快な劇であった。

[注] The Jovial Crew =『陽気な仲間』、またの題名『愉快な乞食たち』(The Merry Beggars)。Richard Brome(1590?-1653)によるロマンティック・コメディ。1641年頃の作で、Bromeの最高傑作の一つで、且つカロライン朝の最もすぐれた喜劇の一つで、ピープスはこの劇を再三観に行っている。

(15)9月9日、''Tis pity shee's a Whore'

 午前中、(ロバーツ)国璽尚書閣下の所に行くが不在の為、(特命室内装飾家の)モリスと一緒に国王の台所頭のセイヤー氏の所に行き、そこで上等の牛肉のスライスを取って朝食をし、ワインセラーでしこたまワインを飲み、愉快な気分になる。飲み過ぎたので仕事にならず、歩いてウェストミンスター・ホールまで行き、ソールズベリー・コート劇場で初めて演じられる''Tis pity shee's a Whore' (『哀れ彼女は娼婦』)を観たが、つまらない劇で、演技も下手くそであった。しかし好運なことには隣の席の夫人が美人でしかも知的な感じで大変うれしかった。

[注]  'Tis pity shee's a Whore=『哀れ彼女は娼婦』、ジョン・フォード作による悲劇。

(16)9月11日、'Twelfth Night'

 ムーア氏の仕事の用事で彼と一緒にウィリアムズ医師を訪問し、リンカンズ・イン・フィールドの劇場で新しい劇『十二夜』を観た。国王もおられた。自分の心と決心に反して行ったことで心の重荷となってちっともも楽しめなかった。帰宅して劇場に行ったことが心を煩わし、妻と一緒でなければ劇場へは行かないことを妻に誓った。

(17)9月25日、'The Merry Wifes of Windsor'

 ピープスは妻との約束にもかかわらず、悪魔の誘惑に駆られてシアターへ行く。
 そこで『ウィンザーの陽気な女房たち』を観たが、下手くそだった。

(18)10月10日、'The Traytor'

 午前中ずっと事務所。昼食を自宅で取り、サー・ペン(海軍司令官)と私の妻とでシアターに行き、『反逆者』を観る。国王も来られていた。最も称賛に価すべく演じられ、最高に素晴らしい劇であった。

(19) 10月25日、'Love and Honour'

 昼食後、妻とオペラ座に行きそこで『愛と名誉』を観る。とても良い劇であるが、1週間の間わずか3回だけの公演であったが3回とも全部観た。また上演されれば行くつもりである。

[注]  Love and Honour については、作者を含めて詳細の調べが出来ていない。

(20) 11月4日、'The Bondman'

 妻とオペラ座に行き、そこで『奴隷』を観る。二人ともこの劇を気に入っているのだが、期待が大きかった分、以前、ソールズベリー・コートで観た時のようにはうまく演じられていなかったように思う。ベタートンだけは別にして。

(21) 11月13日、'Father's owne Sonn'

 (ジョン・フレッチャー作)『父親自身の息子』をシアターで観る。

(22) 11月15日、'The Siege of Rhdes'

 妻と(サンドイッチ伯の主馬頭)キャプテン・フェレスと(サンドイッチ伯家の家庭教師)ル・ブラン嬢とでオペラ座に行き、そこで『ロドス島の包囲・第二部』を観る。大変良くできていた。

[注] The Siege of Rhodes =イギリスで最初のオペラの一つで、ダヴェナント作。初演は1656年。

(23) 11月25日、'The Country Captain'

昼食後、(海軍長官の)サー・ウィリアム・ペンとシアターに行き、そこで『田舎の隊長』を観るが退屈な劇だった。ペンを残してオペラ座に行き、そこで『奴隷』の最後の場面を観た。

[注] The Country Captain (or The Captain Underwit) = 『田舎の隊長』(または『キャプテン・アンダーウィット』(「アンダーウィット」には「間抜けな」の意味がある)は、1639-40年に国王一座によってブラックフライヤーズで最初に上演され、1649年に出版された。
 初代ニューカッスル公爵ウィリアム・キャヴェンディッシ(William Cavendish, 1592-1676)作によるドタバタ喜劇。キャヴェンディッシは詩人で、馬術師、劇作家、剣士、政治家、建築家、外交官でもあった。ベン・ジョンソンのパトロンで友人でもあり、彼の作品はジョンソンの影響が大である。
 ピープスは、この劇を10月21日にも観ており、その時も「これまで見た劇の中でも最も馬鹿げている」と書いており、その後1668年5月14日にも観に行っている。

(24)12月16日、'Cutter of Colemanstreete'

 昼食後、妻と一緒にオペラ座で、1658年に作られたカウリーの新作『コールマンストリートの追いはぎ』を観る。初演の為料金が倍するので、お金を節約するため妻と私はギャラリーに行ったが大変よく見えた。非常に優れた劇だった。

[注] Cutter of Colemanstreete =エイブラハム・カウリー(Abraham Cowley, 1618-67)の作。
 この劇は、最初The Guardianというタイトルで、1641年3月12日、ケンブリッジのトリニティ・カレッジでチャールズ皇太子の前で上演されたが、1658年に『コールマンストリートの追いはぎ』として改作された。
 エイブラハム・カウリーは詩人・随筆家で、形而上派最後の詩人とされる。


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