サムエル・ピープスの観劇記

はじめに

サムエル・ピープスは膨大な日記を残しているが、その中に興味深い観劇の内容が数多く書き残されている。
日記を書き続けた10年間の間、日記に書き留められた観劇回数は336回に及び、年平均では33回だが疫病の流行で回数の少ない年もあって、多い年に実に87回も劇場に通っている。
日記を書き始める前は内乱で劇場も閉鎖をされていたが、日記を書き始めた年から王政復古によって劇場も再開された。
どのような演目が上演されたかだけでなく劇場内や観客の様子など、日記には興味深い内容が書かれている。
そこで膨大な彼の日記の中から、観劇に関する内容だけを抜き取ってまとめてみることを思いついた。

「サムエル・ピープスの観劇記」を書くに当たって使用したテクストはPenguin BooksのThe Diary of Samuel Pepys, selected and edited by Robert Latham (1985)と、参考資料として岩波新書、臼田昭著『ピープス氏の秘められた日記』(1982年)を用いている。
サムエル・ピープス(Samuel Pepys)の日記はThomas Shelton(1601-?50)が発明した速記法で書かれている。この速記法はIsaac Newton(1642-1727)も時々使用していた。
ピープスの日記はケンブリッジ大学のモーダリン・カレッジ(Magdalene College)に所蔵されていたが、彼の友人である美術愛好家John Evelyn(1620-1706)の日記が1818年出版されるまでほとんど気付かれていなかった。
ピープスは1660年1月1日から1669年5月31日まで日記を書き続け、その分量は実に約125万語に及ぶ。
ペンギン版の選集は全体の3分の1というが、それでも1000頁にもなる膨大さである。
ピープスが日記を書き始めたのは27歳に間もなくなろうとしていた時であるが、1655年に22歳で7歳年下のエリザベスと結婚していた。

ピープスが生まれて日記を書き始めるまでのイングランドの状況

チャールズ1世(1625年即位‐1649年1月処刑)の治世
1642-49年 清教徒革命(Civil War)
1649年1月30日 チャールズ1世処刑され、共和国(Commonwealth)成立
1651年 航海法(Navigation Act)制定―植民地との貿易をイングランドまたは植民地の船に限定し、ヨーロッパの製品の輸入をイングランドまたは輸出国の船に限定した(1849年廃止)
1652‐54年 第一次蘭英戦争(Dutch War)
1653年 クロムウェルが護国卿(Lord Protector)に就任
1658年9月 オリヴァー・クロムウェル死去
1659年10月 ピューリタン革命時の議会軍の指導者であったJohn Lambert(1619-84)による軍政が崩壊し、ランバートのクーデターで中断されていた残部議会(Rump Parliament)が再開。
Rump Parliament=1648年のプライドの追放(Pride’s Purge)後に残ったLong Parliamentの一部で行った議会、53年に解散されたが59-60年にしばらく復活した。

ピープス氏について ―日記を書き始めるまでの略歴―

1633年2月23日、ロンドンのフリート・ストリートの外れ、ソールズベリー・コートで生まれた。
母親はロンドンっ子で平民の生まれ、洗濯女をしていた。
父親のジョンは仕立屋であった。
ピープス家の前の世代は、大部分はケンブリッジ州の農夫であったが、15世紀にはクローランド大修道院の管理人をしていた人たちもいる。
ジョンの世代では、いとこの何人かは著名な法律家がおり、なかでもリチャード・ピープスはアイルランド共和国の首席裁判官であった。
サムエルの弟トムは1歳下で、父親の仕事を引き継ぎ30歳で亡くなる。
8歳下の末の弟ジョンは、セント・ポール・スクール、ケンブリッジを出て上級聖職者の道を目指したが志を得ず、水先案内協会の事務員、後には兄と同じ共同の事務員として海軍省に勤めたが出世もせず、結婚しないまま36歳で借金を残して亡くなり、兄が支払う羽目になる。
ピープスは内乱(ピューリタン革命)の間、ケンブリッジ州のハンティングドンのグラマースクールに通い、ハンチングブルックのモンタギュー家の執事をしていたロバート・ピープス叔父のところのブランプトンに住んでいた。
エドワード・モンタギューはピープスより8歳年上で後年彼のパトロンとなる。
内乱が終わるとピープスはすぐにロンドンに戻ってセント・ポール・スクールに通い、1651年にそこを出て奨学金をもらってケンブリッジへと進む。
最初法律を目指して法科のトリニティ・カレッジに入るが、後にモードリンに移る。
1654年(21歳)、学位を取るとすぐにエドワード・モンタギューの秘書として仕える。
1655年12月、ユグノー教徒の亡命者の娘、エリザベス(15歳)と結婚する。
1656年、人の紹介で財務省の事務員として公僕の地位を得る。
1658年3月、腎臓結石の手術をする。この年の9月にオリヴァー・クロムウェル死去。
1660年1月、日記をつけ始めたこの当時、妻と召使いのJaneとでロンドンのAxe Yardで暮らしていた。

 
第1章  1660年―王政復古により劇場再開
第2章 1661年の観劇記
第3章 1662年の観劇記
第4章  1663年の観劇記
第5章 1664年の観劇記
第6章 1665年の観劇記 ―疫病流行の年―
第7章 1666年の観劇記 ―ロンドン大火の年―
第8章 1667年の観劇記 ―読書と観劇―
第9章 1668年の観劇記
第10章 1669年の観劇記
   

後 記

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