人の魂が天体であるとすれば、その中で
天使が活動するのは、信仰の力である。
そして、魂以外の天体たちは、他からの動きに
影響されて、本来の動きを失い、
日々、他の天体に追いまくられ、
一年を通して自然の法則に従うことは滅多にない。
同じように、我々の魂が快楽や仕事を
第一の原動力として認めれば、それに振り回されることになる。
そのような次第で、今日、私は西に向かって旅をしているが、
私の魂の形相は東の方に向いている。
そこでは、もう一つの太陽が昇ることにより沈み、
沈むことで、永遠の昼を産むのを見ることができる。
この十字架に、キリストが昇って沈まなかったら、
罪はすべての人々を永遠の闇に陥れただろう。
だが、私はこの光景を見ないことをむしろ喜ぶ。
それは私には余りに荷が重すぎる。
神の顔は、命そのものであり、それを見たものは死ぬことになる。(注:1)
それでは、神が死ぬのを見れば、死はどんなものとなるだろうか。
神の死は、神の代理人である自然を怯ませ、(注:2)
神の足台(注:3)である大地を裂き、太陽も目を閉じる。
北極と南極を結び、すべての天体を同時に回した
あの手が、刺し貫かれて穴があくのを、私は見ることができようか。
我々に対しても、地球の反対側の人々に対しても、
天頂の、いと高きものが、
我々の足下で辱められるのを見ることができようか。
また、彼の魂は別にして、我々すべての魂のよりどころであるあの血が、
泥にまみれるのを見ることができようか。或いは、衣裳として神がまとわれた
あの肉体が、ボロボロに引き裂かれるのを見ることができようか。
これらのものを見ることができないとすれば、
あの哀れな母にどうして目を向けることができよう。
彼女は地上にあっては神の伴侶であり、
我々の罪を贖ってくれた、あの犠牲の半分を与えてくれた人である。
私は今馬に乗っているので、これらのものを目にしているわけではないが、
それらは私の心に深く刻まれているので、
私の心はそちらを向いている。ああ、救い主よ、
あなたは木に吊るされていて、私の方をご覧になっている。
私はあなたに背を向けていますが、それは
あなたが慈悲をもって許されるまで、罰を受けるためです。
ああ、あなたの怒りに値するものとして、私を罰して下さい。
私の錆びと腐敗を焼き払って下さい。
あなたの恵みによって、あなたの姿を回復し、
私をあなたのものとして認めて下されば、あなたの方に顔を向けます。
【訳注】
1613年の早春、ダンはウォリックシャーのポールズワースに、サー・ヘンリー・グッディアとともに滞在していたが、そこから西に70マイル先のウエィルズのモンゴメリーに、サー・エドワード・ハーバートを訪れ、4月7日に到着した。途中、4月3日の聖金曜日にこの詩を書いている。手稿によっては、「ウェールズのサー・エドワード・ハーバートに向かって馬を走らせる」というタイトルになっている。
聖金曜日は、復活祭の前の金曜日でキリストの磔を記念する教会の祭日。受難日。
注:1 「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」(『出エジプト記』33章20節参照)
注:2 「自然を怯ませ」は、『マタイによる福音書』27章51節「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け」を参照。
注:3 「神の足台」は、『イザヤ書』66章1節に「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台」とある。
ページトップへ
|