弱い肉体よ、今日はおとなしくして、飲食を控えよ。今日は、
私の魂が二度食べる日、この日に生まれ、去ったキリストを。
私の魂は、彼を人として見、人の姿をした神と見る。
その二つは、一つの円(注:1)の表象であり、
初めと終わりが重なっている。(注:2)祝祭か断食か、疑わしい
この日、キリストは来られ、去って逝った。
私の魂は、すべてである彼が、一度に二度も無となるのを見る。(注:3)
私の魂は、レバノン杉(注:4)が植えられ、倒れるのを見、
魂の創造主が創造に身を任せ、命の
頭(かしら)が、まだ生まれる前に死ぬのを見る。
私の魂は、乙女であり母でもある女が、
一人で家に引き籠る姿と、ゴルゴタの丘(注:5)で多くの人の中にいるのを見る。
彼女は、喜ぶとともに悲しんでおり、
五十に近いかと思えば、十五にもなっていないように見える。(注:6)
彼女は息子を授かると同時に、失う。
天使ガブリエル(注:8)はキリストを彼女に授け、キリストは彼女をヨハネに与えた。(注:9)
彼女は、母となりきれないうちに、子を失くした母となる。
受取人であると同時に、贈るべき遺産でもある。
このすべてと、その間にあるすべてを、この一日は示す。
キリストの生涯の要約であり、
(平らな地図では、西の果てが東であるように)
天使たちの「ようこそ」という挨拶と、「成し遂げられた」が一つとなる。(注:10)
神の機能を果たす廟堂である教会は、
これらを滅多に一緒にしないが、ときに一つにする。
我々は不動の北極星を頼りにして針路を
決めることはないが、その隣にある星は、
北極星がどこにあるかを示しているので、我々は
(それは遠くまで行かないので)迷うことはないと言う。
同じように、神に最も近い教会によって、我々は神を知る。
そして、教会の動きに従って進めば、倒れることはない。
聖霊が、神の火柱として導くように、
教会は、雲の柱として導く。二つは一つの目的に向かって進む。(注:11)
この教会は、この二つの日を一緒にすることで、
人にとって、生と死が一つのことであることを示した。
あるいは、キリストにとってはどちらも屈辱であることを示した。
人間になることも、人間をやめることも。
また、キリストは神として、
創造と最後の審判の日を一瞬の間に為し、
キリストの花嫁である教会は、人間の両極端である生と死を
一つに結び合わせた。彼は来て、去った。
また、彼の血が一滴流され、受け入れられれば
十分であったのに、彼はすべての血を流した。
キリストの苦痛、行為、言葉の、ほんの一握りでも、
一生涯を占有するに十分だが、教会はこの日、そのすべてを与える。
それゆえ、私の魂よ、この宝をすべて蓄えて、(注:12)
私が生きている間、毎日小出しに出してくれ。
【訳注】
1608年は、受胎告知の日と聖金曜日が3月25日(受難の日:復活祭の前の金曜日で、キリストの磔を記念する祭日)に重なった年である。
注:1 円は、神、完全なるもの、永遠なるものの表象である。
注:2 この日、人となった円の表象であるキリストの受胎と死が一致することを表わす。
注:3 人は生まれる前、無であり、死後、無に帰るが、キリストはこの日同時に無であった。
注:4 レバノン杉は神性の象徴であり、キリストとその王国を表象する(『エゼキエル書』17章22節参照)。
注:5 ゴルゴタはキリストが磔にされた場所。
注:7 処女マリアは、キリストを産んだとき15歳で、キリストが十字架に架けられたとき50歳であった。
注:8 ガブリエルは、処女マリアにキリストの降誕を予告した天使。
注:9 「彼女をヨハネに与えた」(『ヨハネによる福音書』19章26節参照)
注:10 「成し遂げられた」は、十字架の上でのキリストの最後の言葉(『ヨハネによる福音書』19章30節参照)
注:11 「主は彼らに先だって進み、昼は雲の柱となって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされた」(『出エジプト記』13章21節、及び19章9節を参照)
注:12 『マタイによる福音書』6章20節参照(「冨は天に積みなさい」)。
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