十字架 ジョン・ダンの部屋

 

キリストが十字架そのものを受け入れられたのに、彼の似姿である

私が、彼の十字架の像を拒むことができようか。

その犠牲によって益を得ようとする私が、

選ばれた祭壇を軽蔑することができようか。

十字架は他のすべての罪を背負っているのに、

それを愚弄する罪まで耐えねばならないのか。

その光景から目をそらしたいと思う人も、どうして、

そこで亡くなられたあの方の苦しみから逃れることができよう。

説教壇からの説教にも、誤った根拠に基づく法律にも、

どんな中傷にも、私からこの十字架を奪い取ることはさせない。

させないし、またできもしない。それは、この十字架を

失うことがあれば、私にとって別の十字架となるからである。

良くなろうとして、むしろ悪くなる。十字架を持たないことは、

どんな苦しみや、どんな十字架よりも苛酷である。

洗礼の式で、私の上に露の如く注いだ神の道具である

十字架を消し去ることが、誰にできようか。

私が両手を伸ばし、私自身が十字架となる

力や自由を、誰が拒むことができよう。

泳げば、腕を伸ばすたびに、おまえは自分自身が十字架となり、

荒れた海では、帆柱と帆桁が十字架を形作る。

下を見れば、小さな生き物に十字架を見ることができる。

上を見れば、十字の形の翼に乗って舞い上がる鳥たちを見ることができる。

地球の骨格も、天球の骨格も、これみなすべて

経線と緯線が交差するものに他ならない。

それゆえ、物質的な十字架は良薬の働きをし、

霊的な十字架には最高の力が備わっている。

これらは化学的に抽出された薬のように役立ち、

治療によく効くだけでなく、防腐の働きもする。

それゆえ、苦しい試練によって蒸留され、浄化されることで、

おまえ自身が薬となり、薬など必要としない。

十字架を喜んで受け入れ、離さずにいれば、

自分に対して、おまえは十字架そのものとなる。

おそらく、彫刻家は顔を造り出すのではなく、

そこに隠れているものを取り出すだけである。注:1

同じように、十字架に、キリストがおまえの中に隠したものを取り出させ、

彼の似姿、いや、彼そのものとなれ。

しかし、よくあることだが、錬金術師が贋金づくりとなり、注:2

己を軽蔑することで、自己愛に陥ることがある。

それにまた、極上の御馳走が暴飲暴食を招くように、

謙遜から傲慢が生まれる。注:3

それは子供ではなく、怪物である。それゆえに、

十字架にあるおまえの喜びを抑えないと、二重の損失となる。

それに、おまえの感覚を抑えないと、感覚もおまえも、ともに

すぐに滅びてしまい、破滅に屈することになる。

我々の目が良いものだけを追い求めて、悪いものから

十字架を見出そうとしなければ、蛇から逃れることはできない。

耳障りで、肌触りが荒く、酸っぱくて、いやな臭いの感覚で、他の感覚を抑え、

それらを中和して、どれも最高であると呼ぶな。

だが、とりわけ目は抑える必要がある。目は徘徊し、

動き回ることができるが、他の感覚は物体が来るのを待たねばならない。

また、おまえの心臓を抑えよ。人の中で心臓だけが

下に向いていて、動悸がして震えるのだ。

心が下を向くとき、その憂鬱を抑えよ、

また、禁じられた高さに向かおうとする時にも抑えなくてはならない。

また、脳が頭蓋骨を通して発散するのは、

十字架の形をした縫合線のおかげである。

だから、脳が働くとき、口に出して言う前に、

智恵の情欲を抑えて、正さねばならない。

色々な十字架を望み、どれも逃さぬようにせよ。

他者を抑えるのではなく、何事においても自分自身を抑えよ。

キリストの十字架が我々の心の中で

良い結果を産むのは、我々が無邪気に

十字架の絵姿を愛し、それ以上の愛情をもって、

我々の十字架である十字架の子供たちを愛すときである。

 

【訳注】

この詩の背景にあるのは、1603年4月、清教徒1000人が署名して、イングランド王となるためジェイムズがスコットランドからロンドンに向かう途上に出された、国教改革の請願(「千人請願」:Millenary Petition)で、その中で洗礼式における十字架像使用の廃止を訴えた。翌1604年のハンプトン会議でこの請願は却下された。

 

注:1 ミケランジェロは有名なソネットの中で、最も優れた彫刻家は石に隠れたものを彫り出すだけであると言っている。

注:2 錬金術師が合法的に金を造ることができず贋金づくりに走るように、極端な行為が却って正反対のものを産み出す。

注:3 ピューリタンは、自分を蔑むことや過度に謙遜することで自己愛や自己の正当性を主張すると非難された。

 

 

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ジョン・ダン全詩集訳 宗教詩