『婚礼祝歌』  序言  ダンの部屋トップへ戻る

 

『婚礼祝歌』には四篇の詩が含まれる。

配列と表記はA. J. Smith編纂のペンギン版全詩集に従う。

 

「リンカンズ法学院で作られた婚礼祝歌」はダンが法学院の学生時代の作品で、1592年から1594年の間に作られた。この詩は、スペンサーの婚礼歌を模倣して作った擬結婚式の詩であるとも、法学院の夏の饗宴のために書かれた詩であるともいわれている。

 

「王女エリザベスとプファルツ選帝侯の婚礼歌」は1613年の作。

王女エリザベス(1596-1622)はジェイムズ一世の長女で、1613年2月14日にドイツのプファルツ選帝侯フリードリッヒと結婚した。この結婚はジェイムズ一世がドイツにおけるプロテスタントの勢力と同盟関係を強化するための政策として計画された。ダンの詩はこの結婚式を祝う多くの詩人たちの詩の中の一つであった。

 

「牧歌詩」と「婚礼祝歌」は1613年12月26日の日付があり、サマセット伯爵の結婚式の時の詩でこの二つはセットになっている。

(1)表題、およびサマセット伯爵の結婚について

表題として『サマセット伯爵の結婚式に当たっての婚礼祝歌』と付けたのは、A. J. Smithの全集では、「牧歌詩 1613年12月26日」と「婚礼祝歌」は一連の詩として括られているので、詩の内容からこの表題を便宜的に付けた。

この詩は、ジェイムズ一世の寵臣であったサマセット伯爵ロバート・カー(Robert Carr)とエセックス伯爵とフランシス・ハワード夫人(この結婚のためにエセックス伯と離婚した)との結婚式に当たっての婚礼祝歌。

ロバート・カーは1603年、ジェイムズ国王の小姓としてスコットランドから随行し、1611年にナイトに叙せられ、1613年にはロチェスター子爵となり、1613年12月26日の彼の結婚式に当たってサマセット伯爵に叙せられた。

しかしこの結婚には問題があって、サマセット伯爵は彼の秘書であったサー・トマス・オーヴァベリー(ダンの友人でもあった)がエセックス伯爵夫人との結婚に反対したため、彼を無実の罪でロンドン塔に投獄して毒殺した罪を問われ、後に投獄されることになる。

(2)「牧歌詩 1613年12月26日」

アロファニーズとアイディオスの二人の対話体の詩。アロファニーズはダンの友人でサマセット伯爵の被保護者で、彼と同じなまえのロバート・カー(Robert Ker)で、アイディオスは官職を持たない平民を意味し、ダン自身のことであると、グリアソンは提唱している。

(3)「婚礼祝歌」

11章からなり、最後はアイディオスとアロファニーズの対話の詩で終わる。各章はそれぞれ11行からなり、それぞれの章に小題が付けられている。

 

 

リンカンズ法学院で作られた婚礼祝歌

 
 
 
 
 
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