『諷刺詩』序言 ジョン・ダンの部屋トップへ戻る

 

『諷刺詩』は、5篇の「諷刺詩」と付録として「トマス・コリャット氏の『不消化物の数々』に寄せて」を含む。

「諷刺詩」5篇が書かれた年代は、『エレジー』の書かれた年代と同じく、1590年代と考えられており、おおむね1593年から98年にかけて書かれたとするのが通説である。

グリヤソン教授は、1593年は早すぎると主張しており、C.A. パトライズは「諷刺詩 V」は、ダンが聖職に就いた後の1620年代に書かれた可能性を指摘している。

『セント・ポール寺院の司祭、ジョン・ダンの全詩集と散文選集』(1929年初版)を編纂したジョン・ヘイウォードは『諷刺詩』5篇について次のように要約している。

「諷刺詩 1」はロンドンの社会に対して向けられた諷刺、「諷刺詩 2」は法律家に対する諷刺、「諷刺詩 3」は宗教に対する諷刺、「諷刺詩 4」は宮廷に対する諷刺、「諷刺詩 5」は裁判官の収賄に対する諷刺詩であると。

『諷刺詩』5篇は1633年に最初に出版されたが、当初、検閲でその出版の認可が下りなかったが、一部を削除して出版が許可された。

「トマス・コリャット氏の『不消化物の数々』に寄せて」は、当初1611年の『不消化物の数々』の付録に付けられていたが、最初の出版は1649年であった。

ダンの『諷刺詩』の評価については、ダンの同時代の詩人、ジョセフ・ホール(1574−1656)のVirgidemiarum(「鞭の収穫」、1597年)と並んで、英語で書かれた最初の正式な諷刺詩とされ、ローマの諷刺詩人、特に、ホラティウス、ユウェナリス、ペルシウスに影響を受けているといわれる。

アレキサンダー・ポープ(1688−1744)は、ダンの時代が洗練さを欠いていたためにダンの諷刺詩が粗雑であるとして、諷刺詩の内2篇を典雅な新古典風カプレットに書き直した。

しかし、近代の批評家は、諷刺詩は粗野であるべきという伝統をダンは知っていて意図的にそのように書いたということで意見が一致している。

 

 

 

諷刺詩 1

諷刺詩 2

諷刺詩 3

諷刺詩 4

諷刺詩 5

トマス・コリャット氏の『不消化物の数々』に寄せて

 
 
 
 
 
>>あーでんの森散歩道 目次へ