ここではA. J. Smithのペンギン版全詩集(初版1971年)に従って、20のエレジーと”Sappho to Philaenis”(サッフォーからフィレニスへ)を加えた21作品を納める。
『エレジー』のほとんどはダンの初期の作品で、1590年代半ば(ダンの20歳代前半)に書かれた。それらは当初出版されず、また初期の現代の編纂者からは真作とは認められていなかった。13のエレジーが、1633年に出版されることになっていたが、5作に許可がおりなかった。それらは”The Bracelet”(腕輪)、”On His Mistress”(彼の恋人に)、”Love’s Progress”(恋の旅路)、”Going to Bed”(寝床に入る恋人に)、”Love’s War”(愛の戦争)である。この許可制度はヘンリー八世によって制定され、高位聖職者からなる審査員団に対して検閲の権力を与えられていた。それによってこれらの5つの作品は風紀を乱す作品とみなされた。1635年の版では17のエレジーが出版され、残りの作品は版を重ねるごとに1作品ずつ追加されていったが、”Love’s War”は1802年まで出版されなかった。
ある稿本や初期の編者は”Elegy on the L.C.”、”The Autumnal”、”The Dream”(“Image of her whom I love”)や、ダンの作品でないと思われる詩を別の分類にしている。Helen Gardner(ヘレン・ガードナー)は、Grierson(グリアソン)がダンの作品として出版した5つの作品、”Variety”、”Julia”、”A Tale of a Citizen and his Wife”、”His parting from Her”、”The Exposition”を除外している。また彼女はそれらと一緒にオウディウスの詩”Sappho to Philaenis”も除外している。
グリアソンの版の『エレジー』の順番は1635年版に従っており、恣意的である。しかし、それらの詩は長い間その順序で知られていて再編し直す必要はないと考える。
1633年版にはタイトルがつけられていなかったが、1635年の版で初めてタイトルがつけられた。(A.J. Smith)
‘elegia’または’elegeia’の本来の意味は、「挽歌形式の詩」で書かれた葬式の哀歌(funeral elegy)だと言われているが、オウディスやローマの詩人たちは、「韻律で書かれた恋愛詩」としてこの語を用いた。従ってダンの時代までオウディウスの『アモーレス』を慣習的にエレジーと称した。
ダンのエレジーは、彼の時代において、彼の詩の中でも最も人気があった。
ダンのエレジーの問題点として、(1)彼の真作であるかどうか、(2)作品の数とその順番、(3)題名の3つがある。数の問題においてはグリアソンが最初に受け入れた20篇が現代の版となっており、一方ガードナーは14篇のみを真作としている。(C.A. Patrides)
|