2 劇場から見るダンとシェイクスピア (その3)

 

ここでシェイクスピアに目を転じて、彼の劇団所属の変遷を見てみると、宮内大臣と饗宴長官によって再編された女王一座が、1587年、ストラットフォードにやってきた。シェイクスピアはそのとき女王一座に参加したという説がある。

女王一座は1588年に2つに分裂し、一つはサセックス伯一座と一緒になる。

1588年には、シェイクスピアはストレインジ卿一座に参加する。ストレインジ卿はシェイクスピアより5歳年上で、ウォルター・ローリーの「夜の学派」の一人であった。その「夜の学派」には、ジョージ・チャップマン、ジョージ・ピール、トマス・ヘリオット、ジョン・ディー、それにクリストファー・マーローもいたと考えられている。注1

ストレインジ卿一座では、マーローの『マルタ島のユダヤ人』、『パリの虐殺』、トマス・キッドの『スペインの悲劇』など上演し、シェイクスピアはそのなかで役者として出演した可能性があるといわれている。

その後シェイクスピアはペンブルック伯一座に所属し、93年の秋から冬にかけて地方巡業に出ている。一座は地方巡業による負債のため、『じゃじゃ馬ならし』と『ヨーク公リチャード』(『ヘンリー六世・第三部』)のため売却している。

1593年一座が解散した後、翌年の宮内大臣一座形成まで、一時的にサセックス伯一座に参加し、ローズ座で『タイタス・アンドロニカス』が上演されるが、疫病の流行で劇場は再び閉鎖となる。注2

1593年1月に流行した疫病では、ロンドンでは15,000人、人口の1割が亡くなっている。シェイクスピアは、劇場閉鎖の間、地方巡業には参加せず、詩を書いていたという説があり、この年の夏、ストラットフォードの知人、リチャード・フィールドが、シェイクスピアの『ヴィーナスとアドニス』を出版し、サウサンプトン伯に献辞されている。シェイクスピアは、サウサンプトン伯に二度目の献詩『リュークリーズの凌辱』を捧げている。

疫病による劇場閉鎖に関連した詩がダンにある。

 

  Now pleasure’s dearth our city doth possess,

  Our theatres are filled with emptiness;(To Mr. E. G. 7-8)

(今や快楽の飢饉が僕らの都市を襲っている。

劇場はどこも空っぽで空席でいっぱいだ) (書簡詩『E. G. 氏へ』)

 

E. G. は、1590年代はじめ、グレイズ・インに在籍してして、当時ロンドンの北にあるハイゲイトに住んでいたサフォーク州出身の詩人エヴェラード・ギルピン。

 

(注1)「夜の学派」については実在したかどうか確かな証拠はないと倉橋健編の『シェイクスピア辞典』の解説にある。

 

 

ページトップへ