2 劇場から見るダンとシェイクスピア (その1)

 

演劇に関連したダンの詩を前回垣間見たが、この章ではそれをもっと詳細にみてみたい。

ダンは演劇に関心があっただけでなく、リンカンズ・インの学生時代(1592−94)にはかなり劇場に通っており、1593年にはリンカンズ・インの祝宴係長になっているので、演劇にも浅からぬ関わりがあったと思われる。

ダンの詩や手紙などのなかで、シェイクスピアの劇の内容の一部まで触れられているのはそれほどなく(詩を除けば、手紙を含めてダンの散文のすべてに目を通しているわけではないので断言できないが)、すでに紹介したダンの手紙のなかで、『じゃじゃ馬ならし』のペトルーチオの名前が出てくるぐらいのものである。

書簡詩のなかに、ダンの親友クリストファー・ブルックにあてた『凪』(The Calm)に、マーローの『タンバレイン大王』(第一部)の内容の一部が出てくる個所がある。

 

Like Bajazet encaged, the shepherd’s scoff(The Calm, 33)

(檻に入れられ、羊飼いに嘲られたバヤジトのように)

 

スキタイの羊飼いであったタンバレインが、トルコの皇帝バヤジトを征服し、檻に閉じ込めて嘲笑する場面である。

『タンバレイン大王』の初演は1587年で、海軍大臣一座によって上演され、タイトルロールを演じたのは、エドワード・アレンである。上演は大成功を収め、マーローはこの作品によって一躍有名になり、翌年には第二部が上演された。

この初演の頃にはダンはまだオックスフォード大学に在学中であり、初演を直接観たとは思えないが、リンカンズ・インの学生時代に観ただろうと考えられる。

そのタンバレイン大王を演じたアレンであるが、後年、ダンとは浅からぬ関係となる。

1623年12月に、ダンの長女コンスタンスがアレンと結婚する。花嫁は20歳、花婿のアレンは再婚で、歳は57歳、ダンより6歳年上である。

アレンとダンは、婚約時の500ポンドの持参金問題で、後に金銭的なトラブルを起こすが、聖職者として崇拝を受けていたダンらしからぬ世俗的側面を見る思いがする。

アレンはわずか3年後に60歳で亡くなり、コンスタンスには1500ポンドの遺産が入って、1630年6月に、今度は彼女とほぼ同じ年のサムエル・ハーベイという人物と再婚する。

このダンとアレンの関係について、まだ詳しい資料に出くわしていないが、ダンと演劇との関わり、ダンとシェイクスピアの関連性を見る時に興味深い出来事には違いない。

さて、『タンバレイン大王』を上演した海軍大臣一座であるが、この一座にはシェイクスピアとの接点がある。

海軍大臣一座は、元々はハワード卿一座として1576年から活動していたが、同卿が1585年に海軍大臣となってからは、1596年まで海軍大臣一座と称した。1590年にストレインジ卿一座と合併するが、1594年には両者は連合を解消し、旧ストレインジ一座は、リチャード・バーベッジやシェイクスピアを加えて、宮内長官一座に生まれ変わる。この年、宮内長官一座と海軍大臣一座は連合して『じゃじゃ馬ならし』を上演しているが、すぐに両者は別れた。(注1)

ダンが観た『じゃじゃ馬ならし』は、ひょっとしてこの時の上演のものではないか。時期的にもダンのリンカンズ・インの学生時代であり、符合するように思う。

 

 

 

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