1 ジョン・ダンの詩に見るシェイクスピア再発見

 

ダンの詩を読んでいて、シェイクスピアの表現にそっくりだと思われる詩句を発見することがよくある。その気付いた詩句をいくつか見てみたい。

ダンの詩は拙訳を用い、シェイクスピアの訳は断りなき場合、小田島雄志訳を用いる。

その1 ダンから見たシェイクスピア 

◆「そして誓え、どこにも貞節で、美しい女はいないと」

‘And swear

No where

Lives a woman true, and fair’(Song, 6-8)

 

『唄とソネット』の中にある「唄」の中の詩句である。

『ハムレット』の尼寺の場面でハムレットが、オフィーリアに向かって「おまえは美しい(fair)か?」と尋ね、「おまえが貞淑(honesty)でもあり、美しくもあるというなら、その貞淑は美しさをあまり親しく近づけぬがいい」(3.1.103-8)と語る台詞を思わせる。

 

◆「彼女は乙女として行くが、戻るときには元の彼女ではない」

‘She goes a maid, who, lest she turn the same’(Epithalamion at Lincoln’s Inn, 71)

ダンがリンカンズ・インの学生時代に作った祝婚歌の中の詩句であるが、オフィーリアが狂気の中で歌う歌、

「入った娘が出てくるときは、もはや娘じゃないからだ」

Let in the maid that out a maid

Never departed more.(4.5.54-5)

と似通っている。

 

◆「彼女も、比較することはおぞましい」

‘She, and comparisons are odious.’(Elegy 8, 54)

 

ダンの『エレジー8』に出てくる詩句であるが、これはシェイクスピアの『から騒ぎ』の中のドグベリーの台詞にそっくりそのままある。ドグベリーは’odious’と言うべきところを’odorous’と言い間違えて、

 

’Comparisons are odorous’(3.5.15)

と言っている。

小田島雄志訳では「他人との比較は悪趣味が落ちるぞ」となっている。前後の内容の関係で翻訳の雰囲気はずいぶん異なるが、ダンの場合、比較にパラドックスを秘めている。

 

◆「そのころは、女は口説けばものにできた」

‘Women were then no sooner asked then won.’(Elegy 17, 43)

 

『エレジー17』の一節であるが、これは『ヘンリー六世・第一部』の中のサフォークの台詞、

「彼女は美しい、だから口説かぬ手はない。

彼女は女だ、だから口説き落とせぬはずがない」

’She is beautiful, and therefore to be wooed;

She is a woman, therefore to be won.’ 5.3.78-9)

に通じるものがある。

 

◆「美徳が女を作れるか?」

‘Makes virtue woman? ‘ (Elegy 18 Love’s Progress, 21)

 

これは『エレジー18』に出てくるが、ロミオが修道士ロレンスに向かって言う台詞、

「哲学なんかくそくらえだ!哲学でジュリエットが作れますか?」

Hang up philosophy!

Unless philosophy can make a Juliet, (3.3.57-8)

言葉こそ異なるが、意味する内容としては非常に似通った思想である。

 

その2 シェイクスピアから見たダン

◆「いまの世のなかは関節がはずれている」

‘The time is out of joint.’ (Hamlet1.5.189)

 

ハムレットが亡霊と出会った場面の台詞である。この場合の’The time’の意味は’things generally, the state of the world’で小田島雄志訳にある通りである。

これと全く似た表現がダンの『一周忌の歌―この世の解剖』にある。

‘so is the world’s whole frame

Quite out of joint’ (The Anatomy of the World, 190-1)

この詩が書かれたのは1611年であり、ダンがシェイクスピアの『ハムレット』を観ていたことがあってこれを書いたのか、このようなものの見方や考え方が当時普通にあったのかということも併せて興味深いことである。

ダンのこの詩にはさらに次のような表現が続く。

‘each joint of th’ universal frame’ (198)(宇宙のすべての関節)

‘th’ universal flame’は、’the whole frame’とともにシェイクスピアの’the time’と同じ意味である。

 

◆「この世界はすべてこれ一つの舞台」

‘All the world’ a stage’ (As You Like It2.7.139)

 

 皮肉屋で憂鬱なジェークイズの人生7幕について語る冒頭の台詞である。

この台詞にそっくりなのが、ダンの『二周忌の歌―魂の遍歴について』に出てくる。

‘all this world was but a stage’

(The Second Anniversary−Of the Progress of the Soul, 67)

 

ジェークイズの台詞では次のように続く。

人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、

それぞれ舞台に登場してはまた退場していく、

そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる、

ダンの詩では、

How others on our stage their parts did act;

What Caesar did, yea, and what Cicero said. (286-7)

他の人が、我々の舞台で自分の役をどのように演じたか、

シーザーが何を行い、キケロが何を言ったか

 

とそれぞれがみな舞台で演じる役を持っていることを謳っている。

ダンの詩には、世界は舞台であり、人はその中で演じる役者であるという考えは随所に現れる。また劇場に関連する形容もかなり出てくる。その一端を紹介すると、

 

‘And Courts are theatres, where some men play

Princes, some slaves, all to one end, and of one clay.’ (To Sir Henry Wotton, 23-4)

そして宮廷は劇場であり、そこでは人は

王様を演じたり、奴隷を演じたり、つまるところ、一介の土塊に過ぎない。

 

ダンの親友の一人、ヘンリー・ウォットン卿に宛てた書簡詩の一節である。

 

 

 

 

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