ベッドフォード伯爵夫人、ルーシー奥方様の弟君であるハリントン卿に捧げる挽歌  ダンの部屋トップへ戻る

 

ベッドフォード伯爵夫人への献辞

奥方様、

私は法律を学びましたのでそのことに関しては多少精通している者ですが、死者に何か価値を贈る者は、死者に対して恩義を施すのであって、その相続人に対してではありません。ですから奥方様へ送るこの手紙は、あなた様から感謝していただこうとか、私があなた様へ感謝していることを伝えるためのものではありません。あなた様が私にして下さったご好意や恩恵は、私の身の程を超えたものであり、感謝の気持を言葉で表現して判断されようとしても、私の感謝の気持はとても言葉では表すことができません。しかし、奥方様、あなた様の気高い弟君の財産はあなたのものですから、それに関する証拠の品もまたあなた様のものであり、あなた様がこの手紙を受け取っていただくことで、これもその一つとなります。そのような性格のものとして、私は恭しくこれを捧げます。それで、あなた様のご家族がいかに完璧に所有されているかという証拠ともなるでしょう。

あなた様の最も敬虔にして

                        感謝を捧げる僕である

                               ジョン・ダン

 

美しい魂よ、すべての魂がそうであるように、

あなたが肉体に注入されたときに、調和であったばかりでなく、

その後もずっとそうであったのです。そして、いまでは、

神の偉大なオルガンの中で、この宇宙全体の一部を担っています。

神の方を見上げたり、私たちを見下ろすことで、

天と地を結ぶ道を見つけられ、また、

人の行動だけでなく、

愛情までも、あなたの知るところとなるなら、

喜びの眼で私を見て下さい。私はかなりの程度

立派に成長したので、あなたを学ぶことができ、

瞑想を重ねることで浄化されたので、

肉体を脱ぎ捨て、私の魂を拡張することができ、

この静かな恍惚によって

地上を天国の縮図に、私自身をあなたの縮図にすることができます。

いま、すべてのものが憩う真夜中、あなたはここにいる私を見ています。

時は引き潮、すべての人の心が

明日のことを忘れる時。働く者たちは

ベッドでぐっすり休んでいるが、彼らが最後に行きつく場所、教会の墓場も、

変化をするものであるから、この眠りの手本とはなり難いのです。

いまは、明日に最後の審理を控えた囚人も

眠りこけ、死刑の判決を受けた男も、

(次に目を開けた時には、死によって再びその目を

閉じなければならない)、懸命に目を開けていますが、

うたた寝をすることで死ぬ練習をしているのです。

この真夜中、あなたは私を見ておられます。やがて

太陽が私のもとに昇り、真夜中は真昼となり、

世界のすべてが透明に輝き、私は

あなたを見ることで、あらゆるものを通し、教会と国家を見ることができます。

この光のおかげで、私は

見ることが最も困難なもの、私自身を見ることができます。

神は鏡です。ですから、あなたが、すべてのものを見通す

神を見る時、ご自分に関するすべてを見ることができます。

私はいまだ神の栄光を受けておりませんが、

あなたの生きざまや死を鏡として、すべてを悟ります。

神は、私たちにとって真の鏡です。その鏡を通して私たちが

あらゆるものを見ることができるのは、神が万物の根源だからです。

透視画法によって、物事を

適切な大きさにして見せてくれるのは、

立派な人たちの行いです。彼らがこの世に住んでいることで、

遠く離れた美徳も、近くに見えるのです。

しかし、彼の行為に関して、私は、どれを確認でき、

どれを捉えることができるのだろうか。どれを最高のものと呼べばよいのだろうか。

流れる美徳は、見詰めることができないだけでなく、

凝視にも耐えることができないものです。

肉体は変化するものです。私が去年身に付けていた

生命の液、体液、血液を、今では身に付けていないように、

また、私が目を釘付けにして見ていた川に

こぼれ落ちた滴が、あっという間に、

押し寄せる水に流されて、私の視界から消え去るように、

この美徳の大海の中では、誰も

美徳があると主張できないのです。美徳は、川のように流れていきますが、

美徳を持った人は、永遠に留まるのです。

ある人が別の人の肉体を食べたとしても、

その肉体の一部は、別の人の一部となって、

最後には二つの完全な肉体として天に昇っていきます。

それというのも、神はすべての元素の在りかをご存知だからです。

同じように、これらの美徳すべてから一つの知識が作られるとすれば、

彼の境遇をこと細かく知る者は、彼の美徳に

それぞれ名前を付け、序列をつけることができるでしょう。

しかし、そのように美徳を分割したり、細分化するようなことをすれば、

自然や、美徳や、運命を傷つけることになります。

美徳は、一体で完全なものとしてあったからです。

霊魂を、それぞれ名前で呼ぶことのできる

最も純粋なものからできていると言う人は、

霊魂は、部分からなるのではなく、単一なものである

と主張する人の半分も霊魂を敬っていないことになるでしょう。

美徳も同じことが言えます。一点なる一という数字はそれ自体で全体であり、

百万という寄せ集めの数字より完全なものだからです。

運命が彼の美徳を数え上げさせるつもりがあったら、

彼を長生きさせていたでしょう。

そうなっていれば、時に応じて、この美徳、あの美徳と、

私たちは見ることができ、こう言っていたでしょう。彼は今

才知に溢れている、今賢明である、今穏やかである、今正義を重んじていると。

善良な短い生涯の場合、美徳が割り込んで

場所を得て間に合わせようとするのは、美徳が

時間と場所を失う前に、成し遂げようとするからです。

彼の場合がまさしくそうだったのです。時間が足りず、

やむなく自分自身を縮図とせざるを得なかったのです。

その結果、わずか数年の間に、

長く生き続ける年代記が述べることができるすべてを見せようとしたのです。

天使が天国から舞い降りてくるとき、

私たちの素早く動く思考ですらそれについて行けないように、

彼は今太陽のもとにいる、

今は月を通り過ぎ、今は空中を走っている、と考えることができないのです。

しかし、天使がやってきた時、私たちは天使が

天と地の間にあるすべて、太陽、月、空中を巡ってきたことを知っています。

この天使は、瞬時にして物事を理解しますが、

この急激に得た知識は、

物事のさまざまな形象を素早く集めては、

それを秩序立てることから生じるものだと、私たちは知っています。

天使ほど素早く考えることができない思考の鈍い人々は、

天使がそんなに早く考えることができるとは思っていません。

熟達した読書家というものは、

音節や、綴りにいちいち目を留めませんが、

紛うことなく、ものごとをはっきり見て、

AとBを比較して考えるのです。

同じように、早死にした善良な人々においては、

個々の美徳は理解されなくても、総合的な善は理解されます。

天使が旅をして、知識を得、また、人々が読書するように、

彼らはそのような速さで、あらゆる美徳の道を進みます。

ああ、それならばどうして、この世の嵐を鎮めるために

地上に送りこまれた香油の塊であるこれらの人々は、

その行為を通して、自身を拡散、拡大し、

私たちを生かす前に、自らは死んでしまうのでしょうか。

ああ、魂よ、ああ、円環よ、何故かくも早く、

あなたの両端である、生と死を自分の中に閉じこめてしまうのでしょうか。

あなたのコンパスの片足は常に天国にあったので、

もう一方の足は安心して、どんなに遠くまでも

進んで行くことができ、

全世界と、その縮図である人間が持つすべての道を進むことができました。

あなたもご存知のように、回帰線の円は、

(北極と南極が刻む小さな円も)

みな同じように、丸く、均一で、すべて

天球赤道の無限性をもっていますが、

私たちが距離を測ろうとする時、

太陽の様子が、ここではどうで、あそこではどうだとか、

その働きが弱いところや、強いところでは、

大きな円環である子午線だけが、私たちの尺度となるのです。

同じように、あなたの円環は、

あなたの無限の幸福に役立つすべてを表現しています。

私たちはそれを上手に利用して、

若くはあっても、いかにうまく生き、いかに死ぬべきかを学ぶことができますが、

歳をとるまで生きなければなりません。歳をとれば、

宮廷という熱帯地方に耐えて、熱射病のような

熱い野望、氷のような無信仰、

瘧(おこり)のような熱情、水腫病みのような強欲にも耐えねばなりません。

こういった病気を治すには、青春時代の欲望や無知と同じく、

真実の尺度が必要です。

なぜあなたはこれらの病のために薬を投与し、

どうすればよいかを教えてくれなかったのですか。

小型の懐中時計は、

間違った運動や、故障するたびにそれを感じて、

時計の針は中風病みのように震え、その針金

(それは時計の神経です)は緩み、魂ともいうべきぜんまいは、

切れるか、疲労してしまい、脈拍であるはずみ車は、

打たなくなってしまうか、打っても不規則で、

その声であるベルも、ガタガタと鳴るか、黙り込んでしまい、

まるで臨終を迎えた人のように、虚ろとなります。

そうなるのは、時計を巻かなかったり、巻き過ぎたり、

あるいは、調整しなかったり、調整し過ぎたりするからです。

同じように、青春はたやすく壊れるものです。

私たちがすべての人の真似をしたり、誰も手本にしない場合には。

しかし、教会の尖塔で鳴る大時計は、

町中に時を告げ、人々がその時間を使用するので、

その狂いは、個人が身に付ける懐中時計の狂いに較べれば、

広範囲に利用されるだけに、その被害は大きなものとなります。

同じように、歳取った人の過ちは、彼を

信頼の目で見る子供たち、召使い、国家にまで影響します。

あなたは時計のように正確な魂をもっていて、

太陽をも調整することができるうえに、

あなたに魂を与えた神から、日々、

指図を受けて、魂は決して乱れることがなかったのに、

なぜここに留まって、みなの大きな日時計として、

私たち全員を正そうとしなかったのですか。

ああ、あなたはなぜ、この不自然なふるまいの

道具となって、奇跡にではなく、

不自然なできごとに同調して、

満ち潮より引き潮の方が長いのが当たり前であるように、

あなたの青春とともに満ち始めた美徳は、

満ちるより速く、引いてしまわれたのですか。

美徳の潮流は、あなたの最初の息吹で吹き寄せられましたが、

すべてのものが、たちまち死の渦に飲み込まれてしまいました。

どちらの言葉であるか名指したくありませんが、私は、

死か、砂漠が、あなたによって宮廷となったのを見ます。

今や私は確信しています。もし誰かが

良い仲間を求めるなら、その入口は墓場にあると。

すべての都市は、今や蟻塚に過ぎないと私には思えるのです。

そこでは、多くの労働者たちが、

子供たちや、家や、食料のために、苦労して働いています。

彼らはみな、卵や、藁や、穀物を運ぶ蟻に過ぎません。

教会の墓地が私たちの都市となり、そこには、

善良さに富む多くの人たちが集まってきます。   

そこは最高の集合と合流の場所であり、

そこには神聖な郊外があり、そこから

神の都市、新しいエルサレムが始まり、

最高の門が彼らのために開かれています。

勝利の魂よ、あなたはその門から

あなたの凱旋の行進を始めるのです。しかし、法律が許すことには、

その凱旋式の日には、民衆は、

凱旋将軍に対して自分たちの思うままを言うことができます。

そこで、私もその自由を用いて、私の悲しみを表明したいと思いますが、

あなたの凱旋式を少しも損なうつもりはありません。

法律では、凱旋の行進は、なん人であれ、

執政官として勝利を得るまでは許されません。

あなたの力の前に、青春の敵すべてが屈服しましたが、

あなたはこの国においてあなたに定められた身分にふさわしい

戦場における勝利をまだ果たしておりませんので、

あなたの助言によって勝利をもたらし、

その結果、あなたが得た資格によって

王様と臣下の間にあった疑惑を取り除いたとはいえず、

あなたはこの凱旋式を執り行う資格はないのです。

あなたは死を押しのけて、墓場を奪っただけです。

(あなたは勝利を収めたが)これまであなたが戦ったのは、

あなた自身の感情、すなわち、青春の

熱い情欲、冷たい無知に対してであって、

あなたはこれまで外の敵に対して自分の軍隊を進めて

成功を収めたことはありません。外の敵とは、

嫉妬と、民衆から受ける人気のことです。

(この二つは、それぞれ異なる爆雷ですが、

ともに強力であり、等しく破壊的な武器です)

これまでのあなたの戦いは内戦に過ぎませんでした。

内戦で勝利を収めても、誰も凱旋の式を許されません。

防衛のための戦では、勝利を収めたところで、

その力を誇示するための凱旋は許されないのです。

凱旋行進をするためには、国土を守るだけではなく、

領土を拡大する必要があるのです。

ですから、どうして凱旋行進などすることができるでしょうか。あなたの戦いは、

自然があなたを閉じ込めたあの狭い場所からあなた自身を解放することであり、

神があなたに代理の権限を与えたあの国家、

(すなわち、あなたの魂と肉体)を、

神と同じように完全な形にして、神のもとに返すことでした。

あなたの努力を認める神は、あなたが行ったことを他の人が見習うことで、

神の王国を拡大することを望みましたが、

あなたはこの世に長く留まることをしませんでした。

どうして今、あなたは勝利の行進をすることができましょう。天国が

あなたを得たことで得たものは、以前と同じでものしかないのです。

というのは、天国とあなたは、あなたがこの世にいた時から、

お互いを所有し合っていたのですから。

しかし、勝利の行進からあなたを妨げている最大の障害は、

征服されている場所が、

当面の戦争や、今にも勃発しそうな暴動の懸念から

安全に護られていなければならないということです。

彼はそうして私たちを見捨てたのだろうか。それとも、

彼の領土は彼だけのものであって、他は関係ないのだろうか。

そんなことはなく、私たちはみな彼に委ねられていて、

すべての人の手本となるべき人の教区は、世界全体なのです。

彼は、守護天使とともに同じ任務を負って、

すべての人のところに送り込まれたのです。

しかし、勝利の行進をする者を非難したり、責めることを

自由に述べることは法律で許されていますが、このことに

関連して、この勝利の行進に許可を与えた注:1元老院に対しては、

決して意見を申し立ててはなりません。

ポンペイウスを揶揄することは構いませんが、

彼がまだその年齢に達してもいないのに、勝利の行進を許可した

権威者をからかってはならないのです。

そういう訳で、勝利に誇る魂よ、

敬いの気持とともに怒りにかられ、あえて、

あなたがかくも早々と私たちを見捨てたことを書いたのです。

しかし、私はあの偉大な支配者と言い争うつもりは

毛頭ありません。彼の絶対的大権が、

若くしての勝利の行進を許していない自然の法に背いて、

あなたに勝利の行進を許されたのです。そこで私は(苦痛を持って)

私たちの喪失の痛みを和らげ、

あなたの勝利の行進の栄誉を高め、

あなたがその栄誉を失うより、私たちがあなたを失った方が

ましであると、あえて言います。

私たちの時代にあっては、死者への 

愛の証として、彼らの後を追って死に、

彼らと同じ墓に入ることは許されていません。

サクソン人の妻たちや、フランス軍の兵士たちはそうしましたが。注:2

また、私はアレクサンダー大王のように、

過剰なまでの悲しみを表現することはできません。注:3

大王は、友人が死んだ時、すべての町に対して、

町の最大の防御となっている城壁や城砦を打ち壊させました。

美しい魂よ、この捧げ物を拒まないでください。

あなたの墓に、私のミューズを埋葬します。

あなたの価値が偉大であるほど、私の悲しみも大きいので、

ミューズも遅れをとりましたが、最後の言葉を語りました。

 

 

【訳注】

ハリントン卿は2代目エクストン男爵で、父親の称号を継いだ1年後の1614年2月27日に天然痘のため22歳の若さで、トィッククナムで亡くなった。皇太子ヘンリーの親友でもあり、宗教や学問の造詣が深く、宮廷の作法にも通じ、将来を嘱望されていたが、大陸への旅行中突然病にかかり、帰国後姉の邸で亡くなった。

注:1 グナエウス・ポンペイウスは、紀元前81年に、ローマの将軍であるガイウス・マリウ スの軍勢を、若干25歳にしてシチリアとアフリカでの戦いにおいて破った。年齢的にも執政官の資格はなかったが、時のディクタトル(臨時執政官)のスラによって、超法的にポンペイウスの勝利の行進が許された。

注:2 シーザーの『ガリア戦記』によれば、フランス軍の兵士は、選ばれた友人たちと、死ぬときは同じだと、運命を共にする誓いを交わした。

注:3 プルータクの『英雄伝』に、紀元前324年、アレクサンダー大王が、彼の最後の遠征地である中東のエクバタナ(古代メディアの首都)で、彼の寵臣ヘファエションが死んだ時に示した過剰なまでの悲嘆のことが書かれている。

 

 

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ジョン・ダン全詩集訳 挽歌と葬送歌